仲程長治の写真に出会ってから、自分の眼で島を見るのを止めた。もういっそそう言ってしまいたくなるのが彼の写真だ。
それは、彼が石垣島という特権的な場所を持っているからという意味ではない。彼が撮るのはありふれた光景だと言ってもいい。仲程自身が、帰省するたびに人工化されてゆくのを島を目の当たりにして、何も撮りたくないと思う。それを思い直して、撮り始めたのは島人には見慣れた光景だった。でもそこには、見たこともないようなふんだんな野生にあふれている。
どうしてそうなるのだろう。仲程と一緒に歩けば、こちらがすたすたと何も感じずに前へ進むところで、彼は立ち止まり、カメラを向けているはずだ。気づいていないだけなのだ。ぼくの身体と目は当てにならない。
そしてここには、島の野生の美があるというだけではない。色や香り、風や光と翳の織り成すゆらめき。ページをめくるうちに、ああ人工物に覆われていなかったころ、島人には、島はこう見えていたんだなあという嬉しさが湧き上がってくる。
『母ぬ島』には、仲程の母光子の詩も引かれている。
母親に紡たぼれる スクイぬ苧麻がさつに訳せばこうなるだろうか。
(ウヤヌウミタボオーレール スクイヌブー)
唾ぬかざぬんどゥ 肝に思い染り
(ツィツィヌカザンドゥ キィムニウムイスマリ)
母が紡いでくださった籠の苧麻
唾の匂いこそ心に染み入る
素朴だけれど、母の想いだけではなく島の生命観までが充分に折り畳まれている。苧麻(ブー)は、トーテム(祖先)だった。それは母の身体であれば、子の身体を生み出したものでもある。それだからこそ、苧麻は自分の身体でもあるように内臓に染みわたる。唾という霊力も媒介している。感じるべきことを感じ表現することができるのは、どうやら仲程のトーテム系譜の力でもあるようだ。あまり神話のまといを着せるものではないだろうが、母の名も太陽の子として途切れずに継がれたものがあることを教えている。
仲程にとって、苧麻(ブー)とこの一片の詩があれば、もう充分、母というか母系のつながりを感じることができるのではないだろうか。すばらしいし、うらやましい。
この本は、「写真集」としてではなく「コンセプト・ブック」として提示されているのがいい。そう、ぼくたちは『母ぬ島』を味わうだけではなく、ここから考えていくことができる。これを元に島の表現を生み出していくことができる。『母ぬ島』は大事に取っておきたい作品でもあれば、使いこなしたい素材でもあると思う。