谷川健一の『魂の民俗学』の気づきメモ。
福江島の沖には高麗曾根が残っている。「島の言い伝えではそこで漁師が網を打つと、皿類だとか茶碗類ががらがらと引っかかってくる」。
これからすると、「みみらくの島」のひとつは、高麗曾根だったかもしれない。
多良間島では魚を捕らない。水納島から魚を買う。これは、多良間島にとって水納島がかつてのあの世だったことを暗示しているように見える。
敦賀市では「西浦の子は亀の子」という。「亀が海岸の砂の上に卵を産む。人の出産をそれと同じように見た」。「お産の仕方は蹲踞」。
人はサンゴ礁という胞衣から生まれる。こう思考した段階で、亀との類縁を感じたのではないだろうか。また、この「蹲踞」は、屈葬の起源なのかもしれない。赤子の姿勢でもある。
「マウは守り、あるいはマブイ(魂の先島方言からきていると思います」。「マウ神は個人が生まれたときに守護神としてついて、その人間が死ぬとそれで消えるんですね」。
守護神としては「霊魂」由来だけれど、中身は「霊力」由来だ。やはり、宮古の霊魂概念は霊力思考が強い。
「柳田先生のそれ(祖霊観-引用者)は古代的な観念ではなくて、仏教が庶民の間に浸透して以後の祖先への供養意識の定着化に影響しているという感じですね」。
これはそうではなく、むしろ折口の神観念より前古代的だとも言える。
「八重山では石のごつごつした島のことを「サフの島」と申します。八重山では人間が死んだらサフの島に行くと信じられている。磯辺でごつごつした岩の間の海草を採って食べるような貧しい世界」。
これはそういうことではなく、たとえば黒島などにあの世にみた島人がそう言ったのだ。むしろ、この言い伝えの古さをよく物語っているのだ。
『球陽』には「荒神は海神なり」、「必ず奥において出現す。故に俗に奥の公事といふ」と注釈してある。これは、いつか確認。
「渚が現世と他界の中心線」。そしてその場合、他界は果てにあるのではなく、すぐそばにある。
「奄美大島では、八歳になるとおばあさんが三角形の布切れをつぎはぎして孫に衣裳を作るんです。この三角形はあなたのひいじいさんの魂、この三角形はあなたのひいばあさんの魂、というふうに近親者の霊魂を孫に与える着物に縫いつけるわけ」。
「国頭では、やけどで死んだ老婆は逆さに埋葬した」。
これは沖縄島で多い伏臥伸展層の後身の姿かもしれない。
「干瀬はさながら一条の練絹(ねりぎぬ)のごとく、白波の帯をもって島を取巻き、海の瑠璃色の濃淡を劃している」(柳田國男)
「物音もない海浜に、ほうとして、暮しつづけている」(折口信夫)。