地質学では、与論の琉球層群の堆積体は、宇勝層・麦屋層、与論島層、供利層・チチ崎層の三層に分けられている。三層に分けられていると言うと、宇勝層・麦屋層お上に与論島層が乗り、与論島層の上に供利層・チチ崎層が乗っていると想像するが、そうに違いなくても、単純にはイメージできない。
時々の海水準(かいすいじゅん)によって、海面の高さが異なるから、その時に形成される地層の場所、高度はまちまちなのだ。
「鹿児島県与論島の第四系サンゴ礁堆積物(琉球層群)」(小田原啓・井龍康文『地質学雑誌』1999年)の記述を元に、図示してみると、島としての与論が形成されるのに、少なくとも7回の堆積タイミングがある。与論島は、七回、大小さまざまの円弧で珊瑚礁が形成され、その度に珊瑚礁の堆積物が島に積もり、現在の形を作ったことになる。
左軸の数字は、現在の島の高度。ちょうどハニブ(兼母)からウプガニク(大金久)までを切った断面図を模している。幅はやや圧縮しているので、実際よりは勾配が高い。
横の線は、段階ごとの海水準を指す。珊瑚礁は、海面の下から形成されるから、海水準の下に堆積物が出来ていったとイメージすればいい。
島人なら、賀補呂から、古里、麦屋に伸びる円弧状のウロ山脈は、珊瑚礁のリーフのラインだと想像できるが、小田原、井龍によれば、これらは櫛の歯状の構造を持つので、リーフの外側で海に落ちるとことの斜面の部分に当たると言う。
与論は、海面の高さが変わるたびに、その高さごとに珊瑚礁石灰の化粧を施していったようなものだ。海水準は、上下変動を繰り返しているので、高度の高い場所の珊瑚岩ほど歴史が古いわけではない。その時々の珊瑚礁はどんな絵を見せていたのだろう。