与論移住史 口之津メモ2
ところで、この移住の契約を成立させたのは、三井資本そのものではなく、その請負人である。その人、南彦七郎について、当時の福岡日日新聞は書いている。...
View Article与論移住史 三池争議メモ2
話しを戻せば、昭和に入り、「服従ハスルモ屈服スルナ 常ニ自尊心ヲ持テ」というメッセージが印象的な与州同志会が結成される。1938(昭和13)年 与州同志会結成。「服従ハスルモ屈服スルナ 常ニ自尊心ヲ持テ」昭和になり、二世の時代になった。巷では、与論の人々をからかったこんなはやし言葉すらできていた。 「ヨーロン ヨーロン けいべつするな ヨーロンにも位があるぞ 大めし喰らいのくらいがあるぞ」...
View Article与論移住史 満州メモ
与論移住史のなかでも、満州開拓団のそれは悲惨で、避けて通りたくなるが、そうするわけにはいかない。 敗戦とともに暴徒と化した満州人によって、入水自決、短刀自決に追い込まれた与論人たちがいた。その他、記述には現れない満州人、ソビエト兵との悲惨も背後には広がっているのだろう。...
View Article与論移住史 田代メモ
満州の盤山開拓団は、その後、シベリア抑留、与論帰島、大牟田の親戚を頼るのとは、別の軌道の流線もあった。国内に盤山を築くというものだった。 当時、故郷与論は米軍統治下にあるが、多くの帰還者が密航船で与論へ帰るなか、鹿児島に残り、新たな入植地を検討する者たちがいた。満州に移住した人たちの37%になる。移住先は、肝属郡。大隅半島の山中で、現在の錦江町田代だ。...
View Article近代を真っ芯で引き受けた与論人
1960(昭和35)年は、日米安保闘争で知られる年ですが、三池闘争の年でもあります。経営が悪化した三井炭鉱は人員削減案を出し、応じない者に指名解雇を通告します。これに労働組合が反発して無期限のストライキに入り、対立し衝突したのです。この闘争は、財界が三井を支援し、日本最大の労働組合組織だった総評が組合を支援したので、総資本対総労働と呼ばれるほど、大規模でかつ象徴的な事件です。...
View Articleシベリアに抑留された与論人
太平洋戦争中、与論から中国東北部の満州へ開拓団として集団移住のあったことは、島の中ではよく知られています。しかし、開拓から二年で敗戦、そして暴徒化した満州人と侵入したソ連兵によって惨劇は起きます。それは集団自決を含む痛ましいもので、与論の歴史に深い傷跡を刻んでいます。語られることも書かれることもなく、沈黙のなかに秘めた哀しみもきっと多くあるのだろうと思います。...
View Article伊藤左江吉の決意
満州開拓団は、敗戦によって満州開拓の夢はついえましたが、与論に帰ったり大牟田の親戚を頼ったりして実質上、解散したわけではなく、新たな集団移住の地を目指した与論人たちがいました。彼らは鹿児島の大隅半島の山中に拠点を求め、満州の地にちなんで「盤山」と呼び開拓を継続したのです。いまでは田代茶でその名も知られるように、開拓は果たされたのです。...
View Articleフナグとヲゥナグ
与論言葉で音韻の明瞭な差異を見せるのは、麦屋(インジャ)においては、「ヲゥ」が「フ」となることだ。 野口才蔵の「南島与論島の文化」(p.269)の助けを借りながら、その例を挙げてみる。 麦屋 他 日本語 フバ ヲゥバ 叔母 フイガ ヲゥイガ 男 フナグ ヲゥナグ 女 フナイ ヲゥナイ 男性から見た女の兄妹 ヒンジャ ヰンジャ 麦屋 ホークティ ヲークティ...
View Articlew (p) Φ
「フナグとヲゥナグ」について、続ける。 「P音考」を書いた上田万年によれば、「k/g、 t/dの清音と濁音の音韻的対立から考えて p/bでなければならない」としている。すると、「フナグとヲゥナグ」で考えた、麦屋のH音を、八重山のB音の清音化したものと捉えたことは誤りということになる。また、中本譲によれば、...
View ArticleW→B→(P)→F(H)
中本正智の「図説琉球語辞典」(1981年)によると、W音を起点にした音韻変化は次のように示されている。 W → B W → (P) → Φ Wを起点に置いてみると、W音と濁音等価であるB音(吉本隆明「表音転移論」(p.286『ハイ・イメージ論2』)への転移があり、それが清音化されて、P音以降の転訛を生んでいることにならないだろうか。 W → B → P → F...
View Article琉球弧の「ありがとう」分布・補足
中本正智の『図説琉球語辞典』(1981年)に依って、「琉球弧の「ありがとう」分布」を補足する。ニヘー nihe: は本来、「*御拝」であるから、目上に対することばであったが、最近では目下にも使う。 ニヘーが目上に対してなら、カフー(果報)は目下に対してのことばであった。カフーシ(果報をして)のように用いた。平民同士は、目上に対してもシディガフー...
View Article「与論島は沖縄県に属すべき」
笹森儀助。与論では、その名はほとんど知られていないのではなだろうか。 彼は与論に立ち寄ったことがある。時は1893(明治26)年。与論でよく知られている事に対応させれば、あの、初の集団移住となった口之津への第一陣出発の1899(明治32)年のわずか5年前のこと。...
View Article沖縄の歴史を学ぼう
山川出版社の『沖縄県の歴史 (県史)』と『鹿児島県の歴史 (県史)』を比べてみると面白いことに気づきます。 与論のこと、奄美のこと、自分たちが身近に感じられることという視点で見ると、『鹿児島県の歴史 (県史)』は多く見積もって一割、『沖縄県の歴史 (県史)』は少なく見積もって半分なのです。...
View Article珊瑚礁島としての与論形成
地質学では、与論の琉球層群の堆積体は、宇勝層・麦屋層、与論島層、供利層・チチ崎層の三層に分けられている。三層に分けられていると言うと、宇勝層・麦屋層お上に与論島層が乗り、与論島層の上に供利層・チチ崎層が乗っていると想像するが、そうに違いなくても、単純にはイメージできない。 時々の海水準(かいすいじゅん)によって、海面の高さが異なるから、その時に形成される地層の場所、高度はまちまちなのだ。...
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