中沢新一の『精霊の王』から、縄文的思考のエッセンスを抽出してみる。
国家以前の社会では、力の源泉は、神や権力者それ自体のなかにはなく自然の内奥に隠されていた。そこでは、生と死、過去と未来、時間と空間などがひとつに溶け合ってまどろんでいるドリームタイムのような場がある。そのなかから胞衣という保護膜にくるまれて変態を繰り返しながらちさき者が育つ。それはやがて胞衣をやぶって、しかも胞衣をかぶったまま出現する。それは童子の姿だけれど、ザシキワラシがそうであるように、幸や富をもたらす。
また、童子の姿ではあっても、老人でもあれば始祖でもある。このことは、宿神を守護神とする芸能者たちに「翁」の演目として重視されてきた。さらに、胞衣というこの世とあの世の中間の要素を失っていないので、人を食らい新しい自分として生まれ変わりを促す荒ぶる神の要素も持っている。たとえば芸能者は、この力の源泉とのつながりをへその緒のように失わずに芸能を行うとき、ふつうの人には出来ない技芸を達成することができる。猿楽に発祥する能の「翁」は出現する宿神そのものだ。
これは中沢自身が強調しているように胎生学的なイメージが強い。縄文的思考とは、何もないところから生命が生まれる不思議さを自然を介したモデルにまだ高めた哲学のように見える。
ぼくたちが最も躓くとしたら、「生と死、過去と未来、時間と空間などがひとつに溶け合ってまどろんでいる」という状態のことだろう。しかし、琉球弧にはドリームタイムに近い「世」という言葉がある。それは、「アマン世」「大和世」などと時代を表わす言葉でもあれば、祭儀のなかでは「世は直る」というように反復する時間も指せば、富や豊かさを包含している。「世や直れ」と歌うミュージシャンもいるように、祭儀を離れても、その感覚は失われていない(下地暁「ウヤキあぁぐ『宮古世』)。
それが確認できれば、これは何から何まで島人がサンゴ礁に見たものと同型だ。スクは、海原の精霊としてサンゴ礁の彼方から到来し、サンゴ礁という胞衣を通じて、スクとして現出する。それは、「あの世」からもたらされる富と幸福の象徴だった。そしてスクは、時化を呼ぶ荒ぶる神の一面を持っている。スクはスクだけで存在しているのではなく、サンゴ礁の精霊の化身であるジュゴンともつながっていて、そのサンゴ礁の精霊は、海の精霊を通じて、人を喰らう津波を引き起こす。
ここでは、サンゴ礁は、「生と死、過去と未来、時間と空間などがひとつに溶け合ってまどろんでいる」。サンゴ礁期は、前に進む時間が駆動しはじめたので、それにほころびが生まれてきているに違いないが、それでもサンゴ礁自体は、そうであり続ける場だった。
島人は、やがてそれをまれびと(来訪神)として表現するようになる。しかし、琉球弧では、来訪神以前のプレまれびとであるスクを通じて、中沢が縄文的思考として探究した世界を、初々しい形で再構成してみることができる。これは、縄文的思考の源泉を持っていることを意味するだろう。そこが可能性だ。どうやら、珊瑚礁の思考の核心もそこにありそうだ。