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島尾敏雄の「琉球弧」 1.ふいに書かれた「琉球弧」

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 知るにつれ驚いたのは、奄美大島から与論島までを「ひっくるめた総合的な名前が見当たらない」(「アマミと呼ばれる島々」)ことだった。

 「奄美(群島)」があるではないかと思われるかもしれない。しかし、島尾敏雄は気づかずにはいなかった。「奄美」や「奄美群島」では「強いてひとまとめにしようとする意図が目立って、生活感情の中からしぜんに生まれてきた言い方ではない」(同前)。「沖永良部島や与論島で、自分の島が奄美と呼ばれていることを知ったのは、やっと昭和に入ってから」(「南島について思うこと」)と言われている。「観念的にはアマミの中の一つだと理解していても、島々のあいだに差異が多く、何となく実感としてぴたりとこない」(同前)。それどころか、「ひとまとめにして奄美と呼ばれることを拒んでいるようにも見える」(「加計呂麻島呑之浦」)くらいなのだ。

 島尾が奄美大島に移住して、最初にぶつかったもののひとつは呼称だった。しかも「総合的な名前」を持たないのは島々についてだけではなかった。それより前に、島尾は加計呂麻島の島人が、島を自分の住む集落(シマ)の名で呼びこそすれ、「島そのもの」が「かけろま」と呼ばれることを知らなかったことに驚いていた。「総合的な名前」を持たないのは、島々だけではなく、ひとつの島自体についても言えることがあったのだ。

 島人が島の名を持たなかったのは、おそらく加計呂麻島に限ったことではなく、奄美大島もそうだった。島を「海見(あまみ)」と表記したのは大和朝廷だったし、「大島」にしても元は大和や沖縄島からの呼称だろう。加計呂麻の島人が島を集落(シマ)の名でしか呼ばなかったように、奄美大島の島人も集落(シマ)の名でしか呼んでこなかった。島全体を捉えて呼ぶ必然性がなかったからだ。

 琉球弧の北に位置する奄美大島は、島人の必然性が、島全体を捉えるようになる前に、主に大和からの視線に捉えられ、最初に「海見」、次に「大島」、そして近代以降に「奄美大島」と呼ばれるようになった。その間、按司(首長)的な存在が島々をまとめあげることもなかった。

 「奄美」という言葉自体が、内発的な呼称として奄美大島全体に行き渡った歴史を持っていない。島人による政治的共同体が「奄美」の島々を圏域とした歴史もない。これが、今に至るも「奄美群島」が、そう呼ばれつつも「総合的な名前」として根を下ろさず、また他に「総合的な名前」も持っていない経緯だ。

 ともあれ島尾は呼称の不在という不思議さに触れて、むしろ呼称について鋭敏になった。島々について言う場合、「奄美」ではなく「アマミ」というカタカナ表記にしたのはその試みのひとつだ。

 そのうえそこには、もうひとつ「琉球」に関わる問題もあった。一六〇九年の侵攻以降、薩摩に組み入れられた歴史をもつから、「奄美には沖縄的なものを拒否したい気持とそれに帰納したい願望とが相反しつつ同居している複合の状態のあることも認めなければならない」(「私の中の琉球弧」)。島尾はそこで「琉球」という言葉が現地で受け入れられないのを察するようになる。

 しかし島尾は、もとより「南島」という言い方が好きで、奄美大島のことも、「花ざかりのかたちをした南島の群れのひとつ」(「九年目の島の春」)として見ているし、「奄美」を主語にしても「沖縄」を主語にしても、それは象徴でしかなく、断らない限りそこにはいつも奄美、沖縄、宮古、八重山の全体に浸透させようとする目を持っていた。こうして「南島」という「少しあいまいな表現」(同前)ではなく、より照準を合わせようとする試行のなかで、「琉球弧」という言葉がつかまれることになった。

 奄美大島に移住して五年ほど経った一九六〇年、「南島探検の過程の報告書」と位置づけた本のあとがきで、島尾はこう書いている。

 現在では私は、大島のほかの四つの島の徳之島も喜界島も沖永良部島も与論島もひととおり見てきましたので、それぞれの島の輪郭をひとつずつ描くことによって、大島との対比の中で琉球弧の北の部分としてのアマミをつかみたいという期待に充たされて居ります。(「離島の幸福・離島の不幸 あとがき」)

 この初出の「琉球弧」は筆の勢いでふいに書かれているようにも見えるし、それから一年後の「奄美の妹たち」の本文で紹介されることになる「琉球弧」という概念は、このときすでに掌中にあったようにも見える。もし後者だとしたら、この「あとがき」の「琉球弧」はとても控えめな初出だ。しかし、実のところその印象は本文でお披露目した「奄美の妹たち」でも変わらない。なにしろ、「「琉球弧」といわれる奄美から沖縄、先島にかけての南島」と、括弧で強調しているものの、すでに「琉球弧」という言葉が流布されているのを前提としたような書き出しなのだ。

 この控えめな態度は、琉球弧について書くとき、終始変わらなかったと言っていい。しかし、態度は控えめでも「琉球弧」は、やわらかで強力な概念だった。この言葉がなければ、わたしも、島尾と同じように座りのいい呼称の不在に突き当たるしかなかっただろう。

 「琉球弧」は、島尾が沖縄を訪ねる前に、「奄美」の島々を見聞するなかで、沖縄、宮古、八重山にも通じるものを予見した言葉であり、かつその過程で、呼称の不在や「琉球」に対する島人の抵抗感を通じて掴まれたことからすれば、奄美的な用語だった。あるいは、「琉球」という言葉に対する反発を、島尾は沖縄自身にも見出すことからいえば、とくに宮古や八重山から発されたとしても不思議ではなかった。また、「奄美、沖縄、宮古、八重山」という言い方では、ひとまとめにならないし、主島と離島という考えを伏在させてしまうことからすれば、それぞれの島を主体に据えた、それこそ島発の言葉と言ってよかった。


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