後藤明は、ニューギニアの海岸からビスマルク諸島にかけて分布する、漁をするときに頭を外していたという「奇妙」な話を紹介している。
トカナオは村一番の漁師だった。彼は他の漁師のように夜ではなく昼に漁をした。
トカナオは不思議なことに漁の道具を持っていなかった。(中略)トカナオは両手で首をつかみ頭をねじって胴からはずした。彼はその状態で水中に入り、水面から見えなくなった。彼が戻ると、首の穴があいている場所からたくさんの魚が出てきた。
トカナオは意地悪をされて頭をなくしてしまい、海に入る。何年かしてトカナオが頭をなくした場所から木が生えている。その木から落ちた実をみると、頭に似ていて、目、鼻、口そっくりの跡がある。割ると美味しい汁が出る。村人たちはすばらしい漁師だったトカナオの思い出にこの木の実を"ココ椰子"と名づけた。
後藤は、これを首狩りの説話の流れのなかで紹介しているが、もちろんこれは首狩りとは関係ない。
首のない胴体は、首の座る前の乳児を思い出させる。胞衣をかぶった子供は不思議の技をなすという文脈からいえば、首をはずすという行為は胞衣になるということを意味するのではないだろうか。胞衣になるということは、この世とあの世を往還する状態に入るということだ。海中というこの世とあの世の境界領域では、胞衣は生命を育む容器になる。だから、戻ったとき、胴体から、つまり胞衣からたくさんの魚たちが出てくる、生まれ出てくることになるのではないだろうか。
この説話の段階は、人間と植物との同一視の段階にある。そこで、頭をなくした胴体である胞衣は、人間ではなく植物として生まれたということだ。
これは試論に過ぎないので、他の例に当たったときに再び考えてみることにする。