著者が提示しているものを強引に図解すると下記のようになるだろうか。
ゲーテはメタフィジーク(形而上学)にメタモルフォーゼを対置している。言葉を豊かにふくらませて多様化するのである。ゲーテはメタモルフォーゼを植物から汲み取っているが、対象にそれだけにとどまらなかった。ゲーテにとっては、「植物の形態のみならず、動物や人間、鉱物にいたるまで森羅万象がメタモルフォーゼを遂げる存在として理解されていた」。
ただし、際限ない戯れはカオスへと通じる「危険な賜物」とも捉えられていた。
一方、カントにあっては、象徴あるいはメタファーの位置づけは低く、「概念を表現する言葉の貧困」に他ならなかった。象徴的にしか表現できないのは悟性概念を少ししか持ち合わせていないからだ、と。
しかしそれで収まるわけではなく、理念世界へ超越しようとするその瞬間はメタファーでしか「橋を架ける」ことができないのも確かだった。
こうして著者は、メタファーなりメタモルフォーゼを構成するアナロジーが、「両者ではまったく異なった意味において理解されている」ことを指摘している。
面白いコントラストだと思う。キリスト教神学にとって、「変身とは、神の創造した秩序を破壊する異端者の犯罪にほかならない」という指摘には驚かされもした。カフカの『変身』は勇気ある行動だったのだろうか。
メタファーはメタモルフォーゼに由来しているという視線には、ぼくたちの知らない抵抗の壁が控えているのかもしれない。