本書の紹介のなかで、齋藤久美子は書いている。
動機づけのシステムのどれかが活性化され強い感情体験の渦中にある患者の主観世界に、どうしても巻き込まれてしまう中で臨床家はどうするか。そこでは自身を立て直すために感情と認知・観察機能との間のきわどい綱渡りが必要になるが、活路は、臨床家個人の内省か他方患者側にその源を追及する作業かのいずれかによって開けるのではなく、臨床家が内的苦悩を抱えながら、患者と一緒に間主観的関係性の中にとどまり続けることでこそ創造されていくのだとしている。
これが印象的なのは、ふつうのしかし大切な一対一の関係のなかでも言えることだからだ。むしろ、一対一の関係のなかで、「内省」か相手に「その源を追及する作業」を強いればろくなことにはならない。そしてそうなら、これを一対一の関係のなかで生かすとしたら、臨床家=患者という地平で行うということになるだろうか。
齋藤は、「伝統的精神分析における中立性-解釈投与に関して、その遡行的解明作業が再外傷化をもたらすおそれや、「今、ここで」の生の体験を基に共同探索する作業に反してしまうおそれを指摘し、それに批判的であるのも上記の考えゆえである」、と書いている。
この紹介文は、「「共同探索」による治療的創造性の解放」という不思議なタイトルがつけられている。治療と創造性と。ふつうの人の立場に意訳すれば、傷つけずに伝えるには、どこまでも寄り添い、相手とのあいだに生まれるものを発見しそこから学ぶこと、ということになるだろうか。