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Channel: 与論島クオリア
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与論史2 奄美世(あまんゆ)

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 琉球弧、特に奄美では、はるか昔の時代のことを「奄美世(あまんゆ)」と呼びます。これはとても本質的な名づけ方ですが、ぼくは「奄美世」とは、アマン、つまりオカヤドカリを自分たちの先祖と見なした時代のことだと考えています。驚くかもしれませんが、動物を先祖と考えるのは不思議なことではなく、それを表すトーテムという言葉があるように、人類の初期に普遍的に見られるもので、樹や石などの自然が対象になることもありました。

 アマンを先祖とする考え方の背景にあるのは、人間が動物や植物、自然と自分を区別せずにそれらと同じ存在だと考えていたということを意味しています。そこでは、人はまわりの自然と心を通わせることができました。作った米を貯蓄したり、文明を築いたりすることとは違う、別の豊かさがあったのです。そして大事なことは、明治生まれの女性までは手の甲にアマンのハジチ(針突)をしていたように、時代は「奄美世」を過ぎても、「奄美世」の考え方や感じ方は長く保存されたことです。ぼくはこれが琉球弧の魅力であり強みではないかと思っています。

 さて、「奄美世」が与論で幕を開けるには、島人がいなければいけませんが、最初の島人は誰だったのでしょう。それは知るよしもありませんが、オーストロネシア語族はそのなかの重要な存在だったと考えられます。南島語族という言葉で聞いたことがある方もいるかもしれません。

 オーストロネシア語族は、台湾、フィリピン、ベトナムを含む南方に起源を持つとされ、インドネシア、メラネシア、ポリネシアなど広範囲に展開した人類の集団です。言語学者の崎山理は、日本語の元を形成したひとつはオーストロネシア語だとして、その渡来の時期を3期に分けています。

 1.ハイ期  4000年前
 2.ヨネ期  3000年前
 3.ハヤト期 1800年前

 このうち、「南」を意味する「ハイ」という言葉とともに渡来したのは4000年前です。その頃、与論の珊瑚礁は成長を始めていましたが、リーフはまだ形成されていません。人類が上陸するのは早かったかもしれません。注目したいのは、珊瑚礁がリーフを形成した約3000年前と重なるヨネ期です。この第二期の渡来では、オーストロネシア語族は「砂州」を表す「ヨネ」という言葉を携えているのですが、これは与論にとっても重要な言葉であり、与論の最古の遺跡のひとつであるヤドゥンジョーが約3000年前とされることにも符合していて、彼らが最初の与論人(ユンヌンチュ)である可能性を持っています。与論の神話に言う、赤崎からの開発祖神の上陸とは、彼らのことを指しているのかもしれません。

 ところで、与論が珊瑚礁の島として環境が整ったのは琉球弧のなかでも新しい方で、すでに7000年前には、曾畑式と呼ばれる土器が九州から伝わり、琉球弧もその文化圏に入っていて、北からの人の移住もあったのではないかと考えてられています。けれど、その頃はまだ島人はいなかったと考えると、与論との直接的な関わりはまだ無かったことになります。

 与論がはっきりと関わっただろうと考えられるのは、大和の弥生時代に始まる貝交易です。柳田國男は貨幣の価値を持った「宝貝」を求めて南から北へ北上した「日本人」を想定しましたが、貝はどうやら不思議な力を秘めているようです。琉球弧産のイモガイ、ゴホウラなどを、大和の豪族は、自らの威信を高める印として腕に貝輪をはめたというのです。その際に、奄美の島々は交易の中継ぎの役割を担ったと考えられていますが、与論の島人も貝交易のどこかに登場していたのかもしれません。

 大和の古墳時代に当たる1800年前には再び、オーストロネシア語族の渡来が想定されていますが、これも与論にとって重要だったはずです。彼らが運んだ言葉のなかに、アマンが入っているからです。アマンがトーテムとなり、アマンジョーという地名がついたのもこの時期かもしれません。

 そして貝交易は続き、やがてヤコウガイが大和で大きな需要を持つようになります。それに呼応するように、奄美大島の北部ではヤコウガイの大量出土遺跡がいくつも見つかっています。それは五百年も続いたとされているので、ヤコウガイもとても大きな存在だったのです。

 八世紀になると、大和の歴史書のなかに、「奄美」、「多褹」、「夜久」、「度感」、「信覚」、「求美」などが朝貢したという記録が表れます。大和朝廷が琉球弧の島々を勢力下に収めたわけですが、ここでの「など」の中に与論は含まれていてもいなくても、どちらでも不思議はありません。ただ、太宰府跡から発見された八世紀のものとされる木簡にある「伊藍嶋」は沖永良部島の可能性も指摘されており、与論にもこうした大和朝廷の活動が身近に迫っていたのは確かなことだと思われます。

 「奄美世」の時代の遺跡である上城(ウワイグスク)からは、猪とともに、魚貝類や鯨、ジュゴンの骨が出土していて、当時の島人が狩猟と漁労で生活していたことが分かります。きっと今よりはるかに海人だったことでしょう。


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