松山光秀は徳和瀬のティラ山について書いている。
松山が子供のころ、ティラ山は「木の小枝一本も手折ることもできない、恐ろしくて近寄り難い神山であった」。
「守護神の宿る聖なる山」は、集落の奥から、アークントー、ティラ山、チンシ山の三層構造。チンシ山の南側の裾にイビガナシが祀られている。
イビガナシの前を流れるカマミゴー(神浴び川)の源はアークントーに発する。カマミゴーはノロたちが身を清めた川。産湯などの人生儀礼上の「聖水」もこの川からとった。
聖なる山と祭場は「神の道」で結ばれていた。神の道は、内側と外側のふたつがある。外側の神の道はほとんど通らないうえに、終着点がハマオリの祭場、ナーバマの一角にあるトゥール墓の前に通じていたので、恐れられる傾向があった。
松山は問いを立てている。「なぜティラ山が神様の宿る神聖な場所になったのか」。
チンシ(積石)山は「恐ろしいところ」。つまり、墓場。
チンシ山に葬られた偉大な祖霊は、年月を重ねて清められると、昇華して神となり、一段上のティラ山に宿るようになるのである。(中略)一番上のアークントーは、ティラ山の奥の院といったところであったろうか。ここでは集落の人たちが雨乞いの儀礼をとり行ったり、家屋の建築に伴う山の神の送り迎えの儀礼をなしたりしていた。このアークントーと浜のハマオリ祭場が神の道で結ばれていたことは先にも述べた。
ここでぼくは、干瀬の海とティラ山の関係を探ることになる。狩猟採集時代の後半段階では、どちらもあの世を意味していた。干瀬は「胞衣」であり、ティラ山はその名からして等価物である。そして干瀬側の墓はトゥール墓であり、山側の墓はチンシ山になる。これらはもともと別集団のものだったはずだ。
母系社会になって、ティラ山と干瀬には関連が生まれる。そこでできたのが外側の神の道だろうか。他界が遠隔化されると、ミャーからイビガナシへ通じる神の道が敷かれることになる。
たくさんの限定を加えなければならないが、ひとつの仮説として書き留めておく。