「分からない」ことをありのままに感じるのは、すでに共感である。それは「相手とつながろうとする姿勢の表れだから」と、杉原は書いている。それは相手の求めているものを手探りで探っていこうとする作業のスタートラインであり、むしろすぐに分かろうとしないほうがいい。
「分からない」と分かったこと、「ギャップがある」と分かったこと、それがすでに接近の動きを作り出しています。だから、関心を持ってそこに注目するだけでいいのです。
また、「淋しいね」とコメントすることについて。
淋しいという言葉を身につけるためには、「その人が淋しいと感じている場面でぴったりと「淋しいね」とコメントされることが必要なのです。
だから、著者がカウンセラーとして、「淋しいね」とコメントするのは、相手が淋しいという感情に触れるのを促進したいからだ。そこに行きたいのじゃないかと思う場合。
「心の深い層」の内容は、本人にとっても非常にあいまい。それは、
話を聴いている人の反応によってもかなりの部分が形成されていくような類のものなのです。
それはだから、「話し手と聴き手との共同作品と言ってもいいほどのもの」だ。
「共感」はときに闘い。それが避けられないときはそうする。「穏やかに、落ち着いて、力強く、そして、温かく」。
共感は相手を信じる行為を含んでいる。
相手が自分の言うことをきっと受けとめてくれると信じて、ジャンプするのです。
その人を信じてジャンプして怪我をすることになってもいい。それでもいい。「そう思えることが共感なのです」。
『プロカウンセラーの共感の技術』