「按司世」と「那覇世」に明確な区切りをつけるのは難しいことです。それは、「中山世鑑」の言う1266年の大島入貢の記述を、服属と見なしてよいかどうかは当てにならないという意味ではありません。確かにそれが服属を示すとは限らないという側面はありますが、そこに与論も含まれているかどうかも定かではありません。それに、ことによれば1266年より前に与論は琉球王朝の領地として認識された可能性もあります。
シニグのサークラ集団には、サトゥヌシがありますが、これはニッチェーの後とばかりは言い切れないほど、両者の居住区域は、渾然としていると言います。そしてサトゥヌシは「里主」、つまり領主を意味する名称であり、彼らは沖縄島由来の統治者あるいは官吏として与論にやってきたとすれば、それは1266年以前である可能性もあります。
しかし、ここで「按司世」と「那覇世」の間に明確な区切りをつけるのは難しいと言うのは、琉球王朝が最初に関与して以降、常に王国の支配が及んだという確たる根拠もないからです。北山由来とされる王舅(オーシャン)以降にも、サービ・マートゥイやウプドー・ナタという按司的な活躍をする人物も民話化されていて、「那覇世」のなかにも「按司世」が顔をのぞかせる面もあります。そこで、ここでは便宜的に13世紀を想定するにとどめます。
島の外から統治者が来島したのがはっきりしているのは、北山王の次男とされる王舅が最初です。王舅にしても沖永良部島の世の主、真松千代(ママツジョ)にしても、今帰仁には認識されていない、統治された島の側だけの伝承に依るしかない存在ですが、しかし、王舅には墓がある他、なんといっても与論城(ユンヌグスク)を残しており、ただの伝承ではないと言うことができるでしょう。
北山の滅亡とともに、王舅の伝承も途絶えますが、次いで与論に名を残しているのは、護佐丸です。名を残しているとは言っても、泣く子供の脅し文句に「護佐丸が来るぞ」という言葉が使われていることで知られているに過ぎません。しかし、護佐丸は、北山の滅亡を受けて北山監守として今帰仁にいた期間に、読谷にある座喜味城を築きますが、その際、奄美の島々から使役として島人を調達し築城に当らせたという伝承があります。与論からも築城に加わった島人がいて、それで「護佐丸が来るぞ」という言葉が残っているのかもしれません。
この頃の与論にとって特筆すべきことがあるとすれば、初めて与論が文字に表記されたことです。それは、1431年の中山の公文書に出てくるもので、「由魯奴」、つまり「ゆるぬ」と読める漢字が当てられています。これは大島が「海見」と記述されてから700年以上後であり、表記したのは「海見」は大和、「由魯奴」は琉球であることが与論の立ち位置をよく伝えています。
この公文書にも「由魯奴」は「属島」とあるように、王舅以降のどこかの時点で、中山領とされていたことが分かり
ます。ここで重要だと思えるのは、琉球の歌謡集「おもろそうし」の、勝連おもろとも言うべき一連の歌謡です。
一 勝連が 船遣(や)れ
請け 与路は 橋 し遣(や)り
徳 永良部
頼り為ちへ みおやせ
又 ましふりが 船遣れ(938)
たとえば、このおもろでは、勝連の航海において、請け島、与路島を架け橋にして徳之島、沖永良部島を縁者にして王へ奉れと、徳之島や沖永良部島を徴税の対象にしていたことが伺われます。また別のおもろでは、「鬼界(ききゃ)」、「大島(おほみや)」と、喜界島や大島もその対象であるように歌われるのですが、ここに与論島は出てきません。むしろ逆の立場で出てくるのです。
一 与論(よろん)こいしのが
真徳浦(まとくうら)に 通(かよ)て
玉金
按司襲(あじおそ)いに みおやせ
又 根国(ねくに)こいしのが
与論の神女「こいしの」が徳之島(真徳浦)への徴税に赴くという内容になっているのです。とても驚かされますが、同時に考えさせられることもあります。ぼくたちは、島の歴史を考える時に、「奄美」という言葉に馴染みは薄いものの、大島から与論までをセットで考える癖がついていますが、そうではない歴史もあったということ、むしろ大島から与論までを一組とする見方は、薩摩藩の直轄領以降にできたものとして、境界を固定化せずに見つめる視点を持つことの大切さを示唆されるのです。
そして、第二尚氏の尚眞が王に即位した1477年以降に、与論の「那覇世」は本格化することになります。1512年以降に琉球王朝から派遣された花城(ハナグスク)真三郎が、島主となって与論を統治します。里(サトゥ)の居住区域も、西区、朝戸から城(グスク)へと拡大していきました。これは同時に、里(サトゥ)が居住区域としては一杯になり、人口増加が続けば、低地の原(パル)に移らなければならなくなったことも意味していました。
尚眞王によって本格化された与論統治は、花城以降、屋口首里主、殿内與論主、そして屋口與論主の代の途中までの百年足らず、続きました。