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『アフリカ的段階について』Ⅰ

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 吉本隆明の『アフリカ的段階について―史観の拡張』から、備忘のメモをしておく。

アフリカ的(プレ・アジア的) 住民は全自然(動物、植物、無機物)の意識がじぶんの意識とよく区別されないため、倫理の意識をもたずに自然にまみれて生存している。いいかえると自然物はみな擬人としての神であるし、自己意識はどんな自然物にもあるし、また移入できるとみなされる。自然にたいしてヒトは魔術をかけることができる(p.24)。

アジア的
全自然(動物、植物、無機物)は習俗として宗教的な尊崇の対象となる(p.24)。

 これは、ぼくがまわらぬ舌で考えてきたことで言えば、下記に対応する。

第零次
人間は、全自然を人間の「像(イメージ)的身体」とし、全人間は、自然の「像(イメージ)的自然」となる。

第一次
人間は、全自然を人間の「有機的身体」とし、全人間は、自然の「有機的自然」となる。

アフリカ的な段階では宗教はまだ自然にたいする呪術的な働きかけであるとともに、自然物の節片を神格とみなすほど深い自然との交換や交霊にあたっている。動物も植物も土地も交霊が成り立つ関係にはいると、みな人語とおなじに言葉を発し、人(ヒト)に語りかけたり、人(ヒト)の言葉に感応したりできる(p.26)

 これが、アマムをトーテムと見なした根本的な根拠でもある。

 わたしたちがヘーゲルのアフリカ的な世界への理解といちばん離れてしまう点は、原住民が人間として豊かな感情や情念をもたず、宗教心も倫理もまったくしめさない動物状態の野蛮とみなしているところだ。ヘーゲルは野蛮や未開を残虐や残酷とむしびつけ、生命の重さや人間性を軽んじいる状態にあると解釈している。だが現在のわたしたちは西欧近代と深く異質の仕方で自然物や人間を滲みとおるように理解し、自然もまた言葉を発する生き生きした存在として扱っている豊かな世界だとおもっている。文明の世界が残虐で野蛮だとみなしているものは、独特な視点から万有を尊重している仕方だと解することもできる。

 ヘーゲルはいわば絶対的な近代主義といえるところから、世界史を人類の文明の発展と進化の過程とみなした。そこからは野蛮、未開、原始のアフリカ的なものは、まだ迷蒙から醒めない状態としかかんがえられるはずがない。たしかに自然史(自然も対象とする歴史)としては妥当な視方だという考えも成り立つ。だが人間の内在史(精神関係の歴史)からみれば、近代は外在的な文明の形の大きさに圧倒され、精神のすがたはぼろぼろになって、穴ぼこがいたるところにあけられた時期とみることもできる。外在的な文明に侵されて追いつめられ、わずかに文化(芸術や文学)の領域だけを保ってきた。そして文明史はこの内在的な文化(芸術や文学)の部分を分離して削りおとすために、理性を理念にまで拡げる過程だったとみなすこともできる。精神の内在的な世界は複雑さと変形を増したが、輪郭を失って文明の外観からは隠れて見えなくなる過程だったともいっていい。現在が、ヘーゲルの同時代の精神よりも、認識力を進化させたとは到底いえないとしても、内攻して深化してゆく認識を加えたとはいえよう。

 ヘーゲルの同時代は絶対の近代主義が成立した稀な時期といってよかった。時代が歴史を野蛮、未開、原始と段階をすすめるものとみなしたのは、内在の精神史を分離し捨象しえたためはじめて成り立った概念だった。現在のわたしたちならヘーゲルが旧世界として文明史的に無視した世界は、内在の精神史からは人類の原型にゆきつく特性を象徴していると、かんがえることができる。そこでは天然は自生物の音響によって語り、植物や動物も言葉をもっていて、人語に響いてくる。そういう認知は迷信や錯覚ではない仕方で、人間が天然や自然の本性のところまで下りてゆくことができる深層をしめしている。わたしたちは現在それを理解できるようになった。これはアフリカ的(プレ・アジア的)な段階をうしろから支えている背景の認識にあたっている。

 わたしたちは現在、内在の精神世界としての人類の母型を、どこまで深層へ掘り下げられるのかを問われている。それが世界史の未来を考察するのと同じ方法でありうるとき、はじめて歴史という概念が現在でも哲学として成り立ちうると言える。(p.27~29)

 こちら側に引き寄せて言えば、もともとアフリカ的な段階の世界にいた者として、琉球弧の「内在の精神史」を描きたいということだ。


『アフリカ的段階について―史観の拡張』


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