具志川島遺跡では、前3期のものとして、「重層的な炉跡・焼石遺構・サザエの蓋集中遺構・貝塚」が確認されている。
多数の炉跡や焼石遺構・サザエの蓋集中遺構。
この岩陰は、「短期的に繰り返し利用されていた」。「このような状況は隣の岩立遺跡でも確認されており、複数の集団が同時に利用したのか、同じ集団が時期を変えて利用したのか、両者の関係についてはさらなる検討が必要である」。
前Ⅲ期は面縄前庭様式に代表され、島北側の4箇所で確認されている。この内、岩立遺跡と岩立遺跡西区では岩陰から煮炊きをおこなったと考えられる炉跡や石蒸料理を行ったと考えられる焼石遺構、チョウセンサザエの蓋集中遺構、小規模な貝塚等が確認されており、岩陰で生活を行っていたことが明確である。チョウセンサザエの蓋のみが集められた遺構は例がなく、類似したものとしては、渡嘉敷島の阿波連浦貝塚で確認されたヤコウガイの蓋集積遺構のみである。
前3期以降は「定着期」と呼ばれているが、前3期に相当するところで、岩陰は「短期的な利用」であるということだ。「岩陰」という立地は、「貝」に住むことを意味したと思える。