「祖霊信仰の成立要素」(酒井卯作『琉球列島における死霊祭祀の構造』)。
死者を記録するいっさいのものがなく、むしろそれを忌避しようとする気配さえみられる状況の中で、死者の延長にある系譜上の祖先を祀るということに、どれほどの可能性があったのだろうか(p.588)。
死者儀礼というものは、もともと何ヶ月、何年とかけて完了するものではなく、短期間で完了したというのが私の持論である。洗骨の風習はたぶん十五、六世紀頃からのものだと考えられるが、この風習のなかった時代、もしくはあったとしても、古い伝統を保持している社会では、マブイ別しの時期が死者最終の行事となるはずである。この死者から分けられたマブイは、どこまで行っても、また何年たってもマブイであって、豊饒をもたらすニライの神になりえないだろう。もし死者の霊が後日浄化されて祖霊となり、その祖霊は海上はるかな場所の聖地にとどまるというような信仰があったとすれば、再生信仰の余地はなくなってしまう。つまり二ライ信仰にみられる豊饒をもたらす神、例えば、シヌグ神やマヤの神、アカマタ・クロマタなどのように、日を定めて訪れてくる神は死者の浄化された形の神ではなく、それ自体独立した神であるということは、すでに海上他界の項でのべたとおりである。大陸から儒教、大和から仏教が葬制を複雑にしてしまったが、琉球の本来の霊魂観念は、人間の守護霊としてのマブイと、幸運と豊饒をもたらす精霊という二つの異なった霊魂観念によって確立されていて、この両者は永遠に交わることのない平行線をたどる性質のものだと私は考える。これはさきに紹介した谷川氏や外間氏の見解とはまったく逆の考え方になる。
一つの民族の原信仰とは何であろうかというとき、文化の受容過程を理解することは欠かせない要件である。琉球列島はもちろん、日本全体の古い文化の中で、死者の霊魂の住処を、常世、もしくは墓地など、他界を人間の魂の外に設定する考えを私はとらない。なぜなら、それでは再生信仰の存在が無意味になってしまうからだ。要するに、他界観念と再生信仰はまったく違った世界観だというのが、現在の私の基本的な考え方である(p.592)。
酒井の主張が極まったところで、勢い引用も長くなった。先祖とシヌグ神やマヤの神、アカマタ・クロマタなどの来訪神が異系列であるのはその通りだ。両者は出自を異にしている。けれど、それも時間をもっと遡行すれば、両者はつながる。トーテム動植物とは祖先の元型みたいなものだろう。現在の先祖崇拝の過剰化の歴史が新しいのもその通りだと思う。しかし、これもまた先祖の概念自体は古いものだし、尊ばれてもきたのではないだろうか。
先祖の霊魂は、設定された他界に一時、留まり、再び再生するという信仰はある段階から生まれた。問題は、琉球弧の場合、その死による霊魂の転位が即時的に行われる場面も多いこと、また、他界の設定が集約化されておらず、いたるところ他界だった時代を大きく引きずっていること。だから、現在、流布されているニライ・カナイのみに集約して語ることはできない、ということではないだろうか。他界を人間の魂の外に設定しても、再生信仰は成り立つと思える。