「流着」という言葉について、冨山は書いている。
それは定着に対して設定された言葉だ。いいかれば流亡において重要なのは、どこに定着するのかということではなく、離脱することであり、この離脱において未来を想像し続けることなのだ。定住はいつも流れ着いた結果であり、再び流れ出すかもしれない予感に満ちているのであり、渡辺のいう流着とは、かかる離脱の営みが居住場所にかかわらず継続中であることを、的確に表現しているといってよいだろう。
もともとの石牟礼道子の語法にならえば、ぼくなどはさしずめ与論流れというところだろう。しかし、石牟礼にとってそうだったように、それは出郷した人にのみ当てはまるのではく、居ながらにしての出郷もありうる。与論に居続ける人、与論に戻った人のなかにも、与論流れはいる。それはありありと感じることができる。
離脱の契機はどこにあるのか。たとえば、冨山は伊波普猷の言葉に注目している。既に米軍が沖縄に上陸していた1945年4月に「決戦場・沖縄本島」と題して、伊波は、「今や皇国民という自覚に立ち、全琉球を挙げて結束、敵を襲撃」という、今では目も当てられない主張をした。冨山は、この伊波の無残さに対し別の正しさを置くとしたら、それは思想にはならないとしている。いわば、無残だと主張するのは正しすぎるのだ。むしろ、正しさの消失する場所をこそ見なければならない。「今や皇国民」と語る伊波の言葉は、それを拒絶する身体と紙一重だ。そして、拒絶する者は国家により鎮圧される。伊波の主張のすぐ横には、「お前は何者か」と尋問する言葉が無言の脅迫のように控えている。だから、臆病者の伊波が生きる別の未来を、言葉として確保しなければならない。
遡って、1911年の伊波普猷は、「只今申し上げたとほり一致している点を発揮させる事はもとより必要な事で御座ゐますが、一致していない点を発揮させる事も亦必要かも知れませぬ」と書く。ここで、「一致している点」と書くのは日琉同祖を唱えた伊波だから分かりやすいとしても、「一致していない点」と記したことには、別の場所で、「個性を表現すべき自分自身の言葉を有つてゐない」とも書いた伊波の「個性」の根拠に連なるものだった。
けれども、世界市場における砂糖の供給過剰により黒糖の価格は暴落し、沖縄は蘇鉄地獄に陥るなかで、台湾、南洋諸島と共通の土俵で語られ、植民地の糖業としては崩壊と見なされるとともに、それを国内農業として救済する必要はないのではないかという見なしを国家から受ける。そうした状況のなかで、「個性」の主張は退き、「琉球処分」を「解放」と見なした伊波の認識は折れ、「社会的救済」を唱えるにいたる。
ここで、「一致していない点」という表現には気づいていなかったと思い、「琉球史の趨勢」(cf.『古琉球』)を読み返してみたが見当たらない。1942年の改稿において、そこは削除されたのではないだろうか。伊波は、「個性」を語る言葉の困難さの前に立ち尽くしたということか。
冨山の議論に戻ろう。しかし、蘇鉄地獄には世界性があり、奄美と沖縄に通底するものだった。「すなわちその後の奄美と沖縄における救済論議と振興計画(大島郡振興計画あるいは沖縄県振興計画)の登場、さらに救済や振興と同時に進行する人々の大量流出といった極めて酷似した事態」だったのだ。
蘇鉄地獄に突入する前の1918年、伊波普猷は奄美大島古仁屋で講演を行なう。
余は琉球処分は一種の奴隷解放なりと思ふ。ところが三百年間の奴隷制度に馴致さえれた奴隷自身は却つて驚き又元の通り奴隷にならうと願つた。大島とても同様である。琉球処分の結果琉球王国は滅亡したが、琉球民族は新日本帝国の中に這入つて復活したのである。/又吾々の父祖は明治維新の大業を為すに当たり椽の下の力持ちとなっつたのである。/薩長が徳川幕府を倒したのは兵力が強かつた為でもあるが実に経済問題に帰因する薩長其他勤王藩派は金力に於いて既に徳川幕府に優つてゐた。/それでは見様に依つては大島沖縄人が金を出して幕府を倒したとの結論にもなる此の意味に於て吾等は大に意を強ふして満足すべきである。
このときの伊波は、奄美と沖縄を薩摩支配下の「奴隷」としてつながりを見出そうとしていた。蘇鉄地獄のなかで伊波普猷は「個性」を語る言葉を失うが、そこで「奴隷」つながりの奄美を見出したのだ。そこには再び奴隷になる「予感を連結器」としていた。
いいかえれば、両者は同じ琉球王国の中心と周縁というかたちでまとまるのではなく、近代における自由がもたらした危機と国家の再登場において重なるということであり、伊波にとっての奄美とjは、こうした蘇鉄地獄を軸にして始まる歴史の登場と深くかかわっているのだ。
ここで伊波に掴まれかけている奄美と沖縄は、琉球としてのそれではなく、個性が抱え込む瑕疵においてだ。
冨山は本書のなかで、「まだ終わってはいないのだ」という言葉を反響させている。身近なことに引き寄せれば、これはせりあがる声のように湧きあがらなくても、つぶやかざるを得ない時がある。
黒砂糖の収益なんて、もうとるにたりません。薩摩の討幕資金、つまり中央での政治資金というのは、黒砂糖の収益からでてきたわけではありません。薩摩藩と云う大きな組織をマネジメントする基本的な収入は、上海貿易からの収益です。薩摩藩が奄美の黒砂糖の収益で明治維新をやったという話は、資金の出所の問題でいうと、まちがっています。黒砂糖の収益で、明治維新をやったわけではありません。(原口泉『江戸期の奄美諸島―「琉球」から「薩摩」へ―』2011年)。
伊波普猷が生きていれば、ここにも「個性」を語る困難を見出したことだろう。冨山は伊波普猷の道程を追うなかで、「奄美という問い」を見出しているのだが、この問いを奄美の内側から問うことも、伊波の「個性」と同様に、難しい。
いま、その困難を奄美は、奄美を圏内とする政治的な共同体を持ったことがないからだという言い方で表してみる。そして、これをネガティブに受け止めるのではなく、強引にでもポジティブさを見出そうとすれば、ただの人、人間というアイデンティティに辿りつきやすいことだ(辿りつかざるをえないと言ってもいい)。しかし他方で、奄美というアイデンティティはなくても、島/シマのイデンティティは強烈に存在している。言ってみれば、ぼくは与論流れのただの人だ。それが基底でもあれば、アジールでもある。
ただ、「まだ終わってはいないのだ」。「奄美という問い」から語り出さなければならないという、そういう契機は、たとえば鹿児島の歴史学者の言葉に出会うように、消えてはいない。そのことも確かだ。
この本は、森宣雄の『地(つち)のなかの革命―沖縄戦後史における存在の解放』を思い出させる。