福本繁樹によれば、メラネシアには「仮面」にあたる単語はない。多くの場合、仮面は死者、祖霊、もしくは神の名で呼ばれる。また、吉田憲司によると、仮面を有する部族社会では仮面は「顔」を指すのと同じ言葉で呼ばれる。どちらにしても、仮面が現実の顔の上につけられた「仮の顔」、架空の顔と区別されているわけではなく、顔そのものと見なされていることを意味している。
これは裸身が霊魂の衣裳と見なされた段階の思考法だ。ニューギニア、セピック河流域のイアトムル族の成人儀礼、「ワニの儀式」で、少年が肌に無数の傷をつけられて、ワニの鱗のように見える入墨を施すのは、ワニをトーテムとする霊魂にとっての衣裳を獲得するためのものだ(cf.「「イメージの力」展、見聞記」)。琉球弧の女性がヤドカリの入墨を入れたのも、ヤドカリ・トーテムとしての霊魂の衣裳を施したものだった。霊魂は、身体としての衣裳を規定したのである。
これは言い換えれば、衣裳としての身体が霊魂を規定することを意味する。それが仮面である。霊魂の衣裳が身体だと思考する段階では、逆に衣裳はその人間の霊魂を規定する。仮面を装着し仮装した人間の霊魂は、その精霊や死霊を現わすものとなるのだ。仮面仮装とは、衣裳により霊魂を規定することである。
ということは仮面と化粧とに本質的な差異はないはずである。そのことを示すと思われるのは、ニューギニアのセピック河流域の精霊、カヴァックだ。
特別に設営された柵に囲まれた精霊堂で2ヶ月間隔離されて生活していた男性に、長老が顔面塗彩をほどこす。全身に貝の装身具などで飾り立てると、カヴァクとよばれる精霊の誕生である。(福本繁樹『南太平洋 民族の装い』)。
顔面は、赤、白、黒の顔料で鮮やかな渦巻き文の塗彩が施され、頭、鼻には貝や牙、羽毛などの装身具がふんだんに飾られる。こうしてしまうと、「本人が誰なのかまったくわからなくなってしまう。もはやカヴァクに変身しているのである(福本繁樹「生きている仮面」『仮面は生きている』)。
また、セピック河地方マプリク山地のアベラム族では、ヤムイモ儀礼の際、籐細工や木彫りによって作られた小型の仮面クンブをヤムイモにつける。ヤムイモも仮面をつけることで精霊に変身するのだ。ここでは、仮面のみならず、羽毛の冠や装身具だけでも、ヤムイモは精霊に変身すると考えられているという。
ただ、ボディペインティングであれば、仮面仮装の儀礼を持たないオーストラリアのアボリジニでも行う。この違いは、アボリジニが「肉の霊」の思考が優位で、身体の霊力を重視するのに対して、仮面仮装の儀礼を行う「骨の霊」の思考が優位なところでは、身体と霊魂が二重化されて、より衣裳という概念が物神化するからだと思える。
ところで、大林太良は『仮面と神話』のなかで、仮面仮装と脱皮の神話、羽衣の説話の分布がだいたい重なっていることを指摘している。これは、身体を霊魂と衣裳とみなし、衣裳が霊魂を規定するという段階に生まれた儀礼や神話や民話の広がりを語っているものと見なすことができる。