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与論城を築城したのは誰か

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 ぼくたちは、花城(はなぐすく)真三郎の事績に、その父、又吉大主を取り込み、尚真の子にすり替えた「龍野家系図」を、虚実なじまぜに編集されたものとして読むという構えを持たざるをえない場所にいる。

 「龍野家系図」は、与論城の築城も花城真三郎によるものだとして書いている。読みにくいので現代語訳を試みて引用する。

 かくて渡島、我保須賀大主、名戸麦屋大主、上里大主、又吉大主として任じること14年、ついに大永5(1525)年、與論世の主となった。ここにおいてますます島民の統治執行の府として、将また防備並びに居城として築城の必要に迫られたが、この築城を心得た技術者はなく、ついに首里から大里と称する技師、その他数名の技手ならびに多数の人夫を招き、島中最高の地を選択し、首里城に勝る築城の計画を立て、任に当らしめた。
 けれどもこの築城用の石材が乏しく、苦心の結果、赤崎、追城(上城か-私訳者注)にあった石を運搬し、あるいは各所に散在した積墓の石を取り壊し(ただし、築城の功労者の祖先の積墓は保存)、または全島にある石を集めるなどしてようやく内城および外城の形状を構成した。すなわち首里城に倣い、内城は北側に物見櫓を築造し、外城は城屏を清川までまわし、首里城と同じくこの川より城まで水を引き入れようとしたが、水を揚げることができず、遂にその目的は失敗に帰した。このように苦心惨憺、ようやく築城竣工したことをもって、又吉翁主はついに居城を構え、花城與論主又吉按司と号して、島民の統治を行うに至った。これすなわち、與論城趾の由来なり。(p.51~52「龍野家系図」)

 小園公雄の「奄美諸島・與論島近世社会の一考察(系図と史料)」(『鹿大史学』1988年36号)によると、冒頭の「我保須賀大主、名戸麦屋大主、上里大主」は、「基家系図」の表紙の次に記されたものだ。「我保須賀大主、名戸麦屋大主、上里大主」が、この系図作成に当った者たちのことか分からないが、少なくとも、花城真三郎が歴任した官位のこととしては書かれていない。また、「又吉大主」は、その次に官位由来の経緯が続く父のことである。「龍野家系図」は、これらの要素を花城真三郎の事績のなかに取り込み、代わって尚真の子であることにしてしまっている。

 むしろ、「基家系図」によれば、花城は渡島後、「首里音故沖納言大主」あるいは「沖納言大主」と称したと書いてあり、こちらを引かないのが不思議に思える。

 したがって、大永5(1525)年、與論世の主になったという年次について、ぼくたちはその信憑性も疑わざるを得ない。『与論町誌』もこれを無防備に引いているが、史実と言い切ることはできないと思える。

 この後の与論城築城の経緯にはリアリティを感じる部分もある。それは首里城に似せようとしたことだ。それは、花城の出身が首里近傍にあるからで、彼が首里城を念頭に置くのは自然なことだ。水を引こうとしたが失敗に帰したという個所などは、事績の取り込みにご執心の常とは異なる構えが感じられる。また、島人の墓を壊して必要な石を調達したことも。

 与論城を築城したのは誰か。ぼくに、それは北山王由来の王舅とする伝承が真を指すと感じられる。

 第一に、時折指摘されるように、与論城の平面図は、首里城よりは今帰仁城に似ている。

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与論城(竹内浩『辺戸岬から与論島が見える』)

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「今帰仁城」

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「首里城」

 ぼくは城郭としてのグスクの構造に詳しくないが、与論城の作り手は、首里城よりは今帰仁城を念頭に置いたとする方が自然に思える。また、いくら首里近傍出身とはいえ、「首里城に勝る築城の計画」は野郎自大で、相当に不自然な発想に思える。

 ここに一片のリアリティがあるとしたら、与論城の伏龍型の石垣の向かう先が今帰仁城に対峙するようにあることである。それは尚王朝によって置かれた山北監守の一角を占めたと考えると、合点がいかなくもない。が、与論からも目を光らせるほど山北の勢力が脅威であったかは分からない。

 第二に、「龍野家系図」が次のように書いていることだ。

 こうして諸制度完備し、島中、安穏に治り、島民の敬慕も厚かったが、ついに病魔が襲い、九十三歳で死去した。島民の哀悼は深く、平之半田、米良陵にこれを葬り、もって祈願所となした。これより後、人この地名を王子様(をうしゃん)半田と称し、この祈願所を米良(ミーラ)御願と称するに至ったと伝う。これすなわちその由来なり。與論主傳録記。(p.54)

 ミーラ半田の「おーしゃん墓」は、花城真三郎の墓だというのだが、流布している伝承はそうなっていない。そこは、王舅墓として知られている。ぼくもこの系図を見るまでは、花城ゆかりの地であることを耳にしたことはなかった。ここで書き手は、わざわざ「王子様」に「をうしゃん」とルビを振るのだが、ぼくたちは、これは既に伝承としてあった「おーしゃんばか」の口伝を無視できずにそこに無理矢理、漢字を被せた作為を読み取らざるをえない。

 第三に、墓名にもかかわる伝承の成り立ちから言えることである。

 花城真三郎は、琉球王朝を統一した尚真の意のもとに、その体制を支える者として来島している。そして、花城とその一族の末裔は、薩摩侵攻後の大和世においても、島の統治者の地位を失わずに、三世紀近くを貫徹している。そのなかで、花城とその一族の末裔が、与論城の築城者として名乗ったとしても、王舅とその一族の末裔は声を挙げ異議を唱えることはできなかっただろう。そこに、花城築城の伝承の余地が生まれる。

 しかし、逆はどうか。仮に、花城が与論城を築城したとして、その後に王舅とその一族の末裔が与論城の築城の伝承化を画策する動機を持つことは考えにくい。また、画策したとしても、既に花城とその一族の末裔が圧倒的な力で与論の主になっている治世下において、新たな伝承を流布することは不可能だと思える。

 しかし、王舅とその一族の末裔だけではなく、島人が王舅築城を口に乗せているのである。

 これらのことから、与論城の築城は王舅によるものとみなすのが妥当である。その一世紀後、渡島した花城が、そこに手を加えることはあったにしても、それまで何もなかったかのような装いを、ぼくたちは受け容れるわけにいかない。

 ここで、「磯武里墓の由来」の修正点を追加したい。

Photo

此の墓は与論島初代島主花城真三郎始祖を葬った墓である。始祖は首里城で尚真王の次男として明応元年一四九二年に生まれ幼名を真三郎と称す。永正九年西暦一五一二年二十一才で与論島に渡り統治するに当たり、島内を一巡され現在の琴平神社跡に立って島内を見渡し、築城に最適の場所であると判断してそこに築城して与論島を統治された人で、尚先祖よりの言い伝えによると葬儀の際は田畠から墓まで布を敷き其の上をお供して葬ったとの言い伝えあり 知力 能力 力量共に優れた人で与論島発展の基礎を築かれた最初の人であると言われている

 前半の修正すべき個所は既に触れている(「「磯武里墓の由来」は要修正」)。今回、指摘したいのは「島内を一巡され現在の琴平神社跡に立って島内を見渡し、築城に最適の場所であると判断してそこに築城」の個所だ。ここは王舅の事績として書かれるべきものであり、ありうるとしたら、そこに花城が何を加え修正したかという点である。

 伝承の花城は、父の事績や王舅の事績を取り込み、尚真を血縁に持ち込もうとするが、そこに歴史の総取りへの目論見を感じないわけにいかない。それは、「磯武里墓の由来」の末文にも現れている。「知力、 能力、力量共に優れた人」という舌のまわらない言いようは仕方ないとして、「与論島発展の基礎を築かれた最初の人であると言われている」ということは書くべきではない。虚偽だから、である。「発展の基礎」に対し花城は何かをなしたかもしれないが、「最初の人」であるというのは、花城以前の島の1500年を無きがごとくに扱うもので、虚偽であることは何も知らなくても分かる。こうした歴史総取りの構えが透けてみえることは、彼の事績の信憑性が小さくなることに寄与しこそすれ逆ではないことに、「磯武里墓の由来」の製作者は思い至らなければならない。何より、こうした伝承を振りまくことで、いちばん恥ずかしい思いをしているのは、花城真三郎その人ではないか。


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