中沢新一の『森のバロック』のなかで、子供と排泄を結びつける思考に出会うことができた。
便所の神も出産に関係が深く、箒神と便所の神とを結び合わせた信仰がある。島根県隠地郡五ケ村久見では、出産の時に箒の神とセンチ(便所)の神が集まって産をさせてくれるという。埼玉県入間川では、便所の箒を産神として十一月十九日に祀るそうである。(大藤ゆき『児やらい』)
これは、琉球弧で、便所に埋めた男から煙草が生えたというハイヌウェレ型の民譚に視点を提供してくれる。他のバリエーションいついても、もう少し先まで理解を促している(cf.18.「屋内葬と屋敷神」)。
高倉の下に埋める。「高倉」は穀物という共同幻想の象徴としての意味を持つから、ハイヌウェレ型の神話からのアナロジーからできている。
便所の下に埋める。子を分娩と排泄との類似からのアナロジー。いまさらだが、ハイヌウェレが排泄物から宝物を出すという発想も同型だ。
竈の下に埋める。火の神を通じたニライカナイへ通す。他界への入口。対幻想強化のための供犠。
出産のときに火を灯すことにも示唆が得られた。
徳之島の辺は、婦人皆産すれば其産屋の辺にて十七日が間、昼夜火を焼くなり、家富める者は何百束焼けるとて、薪を多く焼きたるを手柄とす。貧しき者まで皆夫々に焼くなり。夜も白昼のごとし。其故に其家は格別暖気にて汗も出る程の事なり。(飯島吉晴『竈神と厠神』)
中沢はこう解説している。
子供を産む女性の体は、ここでは、まるで「料理のように」火にかけられる。この火による媒介があってはじめて、安全に出産がはたされるわけだ。神話的思考はここで、出産という危険な状態の全体に、ひとつの象徴的なバランスを挿入しようとしている。
「産婦のそばで、さかんに焚かれるこの火をとおして、人々は危険な状況の全体に、せめて思考の中だけでも、ひとつの秩序をつくりだしておこうとしていたのではないか」というわけだ。