モーリス・レーナルトが『ド・カモ』で強調しているのは、メラネシア人には奥行きの概念がないことだ。たとえば、ニューカレドニアのカナク人の彫刻をみると、額の上にぐるぐる巻いたものがあり、これが鉢巻きを示す。その上には大きな円板が乗っているがこれは頭のうしろの部分だ。事物を遠近に位置づけることができないので、ひとつの平面上に展開することになる。奥行きの欠如とは、「空間の微弱さと時間の不在(p.306)」を意味する。これは、アボリジニにおいて時間を指す言葉がなく、空間とは意識のことだとされているのと同じだと思える(cf.「夢見」)。
時間の外にある世界には、奥行きがないのだから、過去もなければ未来もない。したがって奥行きを知らない以上、メラネシア人は空間に関する明快な観念をもつころができず、世界と自己のあいだに隔たりをおくことも、遠景、中景、近景などを順次にとらえ、配置することもできない。世界と自己との隔たりをはっきりと示すことができないので、彼らは神話的な見方をとおしてしか世界を認識しないのである(p.306)。
しかし、レーナルトが観察した時、カナク人はすでに農耕の民なのだから、時間と空間の観念は知っていたと云うべきなのだが、根源的な見方はなお支配的だったと捉えることにする。
そこで、同一の名を持つことも「生まれ変わり」なのではない。
生まれ変わりという観念は、神話的世界が展開する領域とは両立しない時間の領野から生じるのである。祖父の名を名のる孫、ひとつの同じ名をもつ数人の人々である同名者、そういった人々は、祖先の生まれ変わりではない。(中略)そうではなくて、彼らはみな、そうした祖先たちのそれぞれの個性を授与されているのである(p.306)。神話的交感の時は同一性と反復を意味しており、継承関係を意味するものではない。
これは、ついうっかり、琉球弧の童名を祖父の名の継承や再生信仰の痕跡と見なしがちなことを戒めてくれる。「ウシ(牛)」という童名は、ウシであった祖父の生まれ変わりでもなく、祖父の継承でもなく、「ウシ(牛)」というトーテムの痕跡を持つ個性の授与であり、その同一性の反復であるということだ。
また、「祖先祭祀」の盛んなニューカレドニアにおいてそうであるなら、祖先崇拝も当初は、父や母や祖父母等と続くその継承に対する信仰ではなく、家族や親族の同一性や反復に対する信仰だということになる。ということは、祖先崇拝とは霊魂思考における再生信仰の変形なのではないだろうか。
しかし、ここで時間が駆動してしまえば、童名も祖先も継承の意味を帯びることになるだろう。それが、現在の祖先崇拝の意味だ。
もうひとつ、レーナルトが強調しているのは、自己の身体を対象化することができないので、他者や世界との関係のなかでしか、自己を認識できないことだ。そこでは、自己とは潜勢力を持った空白域だ。
彼らが気を配るのは、たんに既知の人物の完全性を保全すること、あるいは何らかの個性(ペルソナリテ)を追加獲得することでその人物を向上させることである。彼らは様々な方策によってその潜勢力の実効的なかたちである人物を確保し、あるいは恒久化しようとする。たとえば彼らは神化した祖先や神話的存在に助けを求めたり、他の象徴を用いてある別の人物を身にまとおうとする。これが仮面の起源である。あるいはさらに彼らは、神出鬼没の行動の自由が可能となる世界に自らを転送することで、そこに入りこもうとする。これが復讐の自殺の理由である(p.274)。
この観点からみると、仮面と自殺がつながる。この自己認識の在り方について、吉本隆明は書いている。
原初の人間は身体像の対象化表出のばあいに、〈自体識知〉の優勢さを、〈対象化識地〉と二重化できないままに混融させていたという知覚作用のある段階に帰せられるようにおもわれる。もちろん、身体像でなく、動物や武器や道具やその他の自然存在も、原初の刻像にあらわれるが、このばあいでも〈自体識知〉の優勢さから、原初の人間は、じぶんを動物に、武器に、道具に、その他の自然存在に〈化身〉させながら、表出する要素は現在からは考えられないほど優勢であったと想定することができる。(『心的現象論本論』)
これはトーテム原理の内実に理解を与えてくれると同時に、鏡のないときの鏡像段階に類するものが、トーテムにも込められたのではないかと考えさせる。