『アリストテレス 心とは何か』の翻訳者、桑子敏雄は、「心」と訳したギリシャ語プシュケーについて、これまで「魂」、「霊魂」と訳されてきた言葉を「心」としたことを強調している。何より、アリストテレスは「心と身体をひとつのものとして捉えている」からだ。
こうした問題意識は、ぼくたちが心を霊力思考の発現に求め、霊魂とは区別しようとしているモチーフとぴったり重なるもので、勢い桑子とは違う道筋からだが、同じ問題意識を追うことになる。
ただ、ぼくたちのモチーフからは、それは目次にすでに明瞭に示されている。
第四章 栄養摂取能力、生殖能力
第七章 視覚とその対象
第八章 聴覚とその対象
第九章 嗅覚とその対象
第十章 味覚とその対象
第十一章 触角とその対象
ぼくたちの考えでは、「栄養摂取能力、生殖能力」が霊力思考に属し、その他は霊魂思考に属している。すると、アリストテレスは心と「霊魂」の全般に視野を届かせていることになる。ただ、身体を離れるものとして「心」を捉えているのではないにしても、「しかけ・しくみ」という視点から「心」を捉えるという霊魂思考は貫徹されている。そういう意味では、この論文は、心と「霊魂」についての霊魂思考的な記述だ。
むしろアリストテレスが退けた説のなかに、霊力思考的な視点は残存している。たとえば、デモクリトスが心を「一種の火で熱いものである」として、「生きている」ことを規定するものを「呼吸」と考えたことや、ヒッポンらが「心は水」であると主張し、「心が精液からできている」と考え、クリティアスが「血」と考えたことなどだ。これらを退ける区別のなかに、すでに霊魂思考的な観点が発揮されている。
ところで、アリストテレスは、霊魂(心)が身体を抜け出るとは考えなかったが、「不死で永遠」であると捉えたものがある。それは「理性」だ。思惟されるものが思惟される契機を与えるもの、その作用をアリストテレスは理性と呼んでいる。