柳田國男は黒潮に乗って流れついた椰子に感慨を寄せ、漂着する日本人の姿のイメージを構想していった。椰子は自然が実を落とし、自然が別の島へと流す。人が流しても、黒潮に乗せれば、どこかの北の島へ辿りつくだろう。それを、潮の流れを知っている者が、特定の島の特定の誰かへ流すこともあったとしたら、どうだろう。自然を利用した郵便。確かに届くとも分からないものを海に託す思いはどんなに切ないだろう。そして、それを確かな頼りとして受け取ることのできた者の想いはどんなに嬉しいだろう。
漁師のジレーが海で遭難し、ハンヌ島に流れ着いて生き延びた。
そして7年ぶりに与論島に帰ってきた。
いつもの漁に出た浜にきてみると、自分そっくりの男の子に出会う。そして家につれていってもらったら、まさしく、自分の家だった。
妻も元気に暮していたが、ハンヌ島の食事に慣れた今としては与論に住むことが出来ぬと別れを告げた。私が生きてる証として、椰子の葉っぱで作った草履を海に流すから、浜辺に草履が流れ着いたら、私が生きていると思ってくれ・・・と。
妻と子は 長らく浜辺で草履を拾って歩いていたが、いつしかなしに 草履が浜にこなくなった。
妻と息子のデールは海辺に塚をたてて偲んだという。ナータイジレーが漁から陸にあがり、水浴びした、水岩壷がある。
ここは神聖なばしょとして、旧暦の3がつ15日にゆかりの親族3~4戸で祀られているとのこと。(竹盛窪「与論島昔話し ナータイジレー」。引用者が一部、編集)
これは実話であってもおかしくない話だ。「ハンヌ島の食事に慣れた」というのは、ハンヌにも家族を持ってしまったという意味に違いない。椰子の草履を流す男と、それを浜辺で拾う妻と子の想いは痛切に迫ってくる。椰子が織りなした物語だが、浦島太郎の物語の背景には、こうした実話がたくさんあったのに違いない。
ナータイジレーの名、ジレーは、石垣島のウンタマギルーのギルーと同系統の名だと思わせる。また、ハンヌ島とは平安座島のことだと言う。与論にはピャンザブニ(平安座船)という言葉が残っている。また、平安座島の南、浜比嘉島はアマミキヨ伝承の島。与論にもアマミキヨ伝承は残っており、潮の流れのつながりを教えている。