棚瀬襄爾が『他界観念の原始形態』のなかで、「かつて人たりしことのなかった精霊」という用語を時々、使うのだが、その意味が掴みにくい。死霊と精霊を区別する必要があるという文脈のなかで、この用語は出てくるのだが、棚瀬が引いているコドリントンの原著に当たってみると、「the supernatural beings that were never in a human body are here called spirits, men's spirits that have left the body are called ghossts(p.121,「The Melanesians; studies in their anthropology and folk-lore」R.H.Codrington)と出てくる。精霊は人間とは独立した存在で、死者の霊魂である死霊とは区別する必要があるということらしい。コドリントンは西洋人に対する注意としてこう書いているのだが、ここはぼくたちが誤解することはないと思う。
棚瀬の整理によれば、動物が神聖視されるといっても、ソロモン諸島とニューヘブリデス諸島とでは意味を異にする。ソロモン諸島で神聖視されるのは、鮫、鰐、蛇、ボニト鳥、フリゲート鳥。墓であることが多い聖なる場所に出現する蛇は、それ自体聖なるもので、死霊の化現であるとされる。
ニューヘブリデス諸島で神聖視されるのは、鮫、蛇、かわせみ、梟、蟹、とかげ、鰻などで、石の置いてある聖所に出没する動物だ。しかし、この動物たちは死霊の化現ではなく、精霊の住む動物である。ここで棚瀬は「かつて人たりしことのなかった精霊」と言うわけだ。
ソロモン諸島は地上の他界であり、転生信仰がある。これに対してニューヘブリデス諸島は、地下の他界で再生、転生信仰は存在しない。再生、転生信仰のないところで、「精霊の住む動物」は出現している。
ぼくたちはここに、トーテミズムが崩壊する過程で、再生信仰は転生信仰に弱められ、転生信仰のなかで、死霊は動物に化身し、神聖視される場合があり、この転生信仰も崩壊すると、死霊は動物に化身しないが、精霊が住むようになる、と理解することができる。
まだ分からないことはあって、それならここでいう精霊と、たとえばオーストラリアのアボリジニの言う精霊とは同じ概念だろうか。
グレートスピリットとも呼ばれる虹ヘビはこんな存在だ。
その神話の主人公の虹ヘビは、地上の水場にすむ巨大なヘビで、女性であるとも男性だともいう。この虹ヘビは赤と白の模様で色どられていたり、空にかかる虹のようであるともいわれる。その一方でこのヘビは、口もとにするどいひげをもっていたり、背中にたくさんのトゲを突き立てていたりする。その力は偉大で、空を飛び地中にもぐり、変身し、人や動物をつくりだし、あるいはそれらを飲み込んだりと、自在に活動する。それゆえこの虹ヘビは、アボリジニのひとにとっておそろしい存在ではあるが、それが雨を司るところから、乾燥した地域の人びとにとっては豊かさの象徴でもあった。(松山利夫『精霊たちのメッセージ』)
虹ヘビは、「変身し、人や動物をつくりだし、あるいはそれらを飲み込んだりと、自在に活動する」という点できわめて霊力が豊かだ。それゆえ、「赤と白の模様で色どられていたり、空にかかる虹のようである」のように実在的な存在感もしたたかにある。
一方で、ニューヘブリデス諸島では、「精霊の住む動物」という表現に象徴されるように、霊魂思考が強い。仮に、精霊という言葉で通すとしたら、霊魂思考が強い場所での精霊は、動物に入ることはできても、人や動物を作り出したり、変身したりはできないはずだ。
ひとまず、精霊という言葉を共通の概念として貫徹できると仮定してのことだが、霊力思考のもとでの精霊と霊魂思考のもとでの精霊は態様が異なると考えておきたい。