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『ハワイ・南太平洋の神話』

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 後藤明の考察は、『「物言う魚」たち』で味わっているので、『ハワイ・南太平洋の神話』については、新たな気づきをメモしておきたい。

1.仮面

メンドンと瓜二つの仮面来訪神は、女護島の神話を持つ、メラネシアのニューブリテン島一帯でみられる。ここメラネシアは仮面来訪神と秘密結社の宝庫である(p.9)。

 ここで後藤は、バイニング族のガヴァットの写真を挿入しているので、仮面とはそのことを指していると思う。ぼくもメンドンを実際に、見たときに、真っ先にガヴァットを思い出した。ただし、メラネシアで豊富にみられる仮面は、死者や精霊を示したものが多く、来訪神以前の仮面なのだと思う。

2.沖縄のエイ女房譚。

 男が釣りをすると大きなエイを釣ってしまう。エイは美しい女に姿を変える。二人は夫婦になる。妻は美味しい酒が湧き出す壺を持っていた。男は毎日その酒を飲んでいたが、ある日、もうこんな酒は飲みあきた、と言った。すると女は白い鳥に姿を変えて飛んでいった(後略、p.15)。

 この伝承は羽衣神話と似ている。この神話は霊魂観念の存在を示唆している。また、脱皮による不死の人間観を持ったところでは、受容されやすい型なのだと思う。

3.近い島を目指すのに頼りになるのは島。遠い島を目指すには星。「南太平洋には独特の星座観があった。星座の名前には、鮫、魚、亀、海鳥、鼠などの動物が使われた(p.44)」。

 これは、エイを意味する言葉が、琉球弧ではハエ(南)を意味することになったという崎山理の考察を思い出させる。石垣島の群星御嶽など、宮古、八重山には星との関わりが深くなるのも遠い航海が背景にあるのだろう。

4.マンガイア島。世界は椰子の実のようなものとして認識されている。「その実には太陽と月が通る穴が開いてる(p.48)」。マンガイアといえば、生と死の分離と他界の遠隔化の伝承を持ち、惹かれてきた(cf.「他界への道を塞ぐ生と死の分離の契機」)。そこには、太陽(ティダ)の穴もあるなんて、ますます惹かれる。琉球弧の「太陽(ティダ)の穴」も同様の世界観を持つのかもしれない。

5.長い間、海を渡ってきた人々の世界観の特徴。人々は東からの向かい風に逆らって航海した。そのため、東、北へ向かうのを登る、西、南へは降りると表現する。

だからその航海は日の出ずる場所に向かう水平移動であると同時に、天に向かう垂直移動でもあった。水平線を見れば、空と海が交わっている。しかしそこに辿り着くとまたその先に空がある。人々は大海原に時おり架かる虹を見て、世界も虹のように層をなしていると考えた。今見えている水平線まで辿り着けば、天空界の第一に辿り着く。その先には第二、第三の層があると(p.49)。

 なるほど、天の階層化は星による移動を示しているということか。北方のシャーマニズムが盛んな地域ても天は階層化されているが、彼らも星を頼りに遊牧しているということだ。また、琉球弧の天は階層化されていないのは、島づたいで行ける範囲が多いからだ。逆に、宮古ではあってもおかしくない。狩俣には天と地の対置が見えるが、宮古島は、天を想定しやすい位置を持っているのは確かだ。

6.入墨

 入れ墨は基層文化であるラピタ文化がすでに持っていた風習であることはほぼ間違いない(p.79)。

 後藤は、入れ墨とそれが異界からもたらされたことの結びつきを強調している。ぼくは、それと同時に、入れ墨技術の入手のあと、異界へ行けるのは霊魂だけになったという箇所が重要だと思う。霊魂と入れ墨がつながり、生と死の分離の完成を意味すると示唆するように見える。cf.「入墨と霊魂」

 また、ラピタ文化が入れ墨を持っていたことは、縄文時代後期(4000年前)に仮面を表現した土偶、土製の仮面が出現することと矛盾していない。

7.死の発生

死を知った人間は日常生活においても死を恐れるようになる(p.148)。

 何気ないことばだけれど、はっとさせられた。死を恐れるようになれば、死者と縁を切り(エンガチョ)、死者を遠ざけるようになる。これは生と死の分離を意味すると思える。するとやはり、死の起源譚はそこを指し示しているだろうか。

8.死霊崇拝

 ソロモン諸島のマライタ島では、「生と死の境界線がわれわれとは違う所に引かれている(p.153)」。死者は、「生きているときよりも、もっと霊威の強い存在として、子孫の生活に影響を与えつづけるのである。そしてランガランガでは、村が移住したりすると、そこの聖域に祀られていた魂はいよいよ墓に入るのである(p.155)」。

 これが死霊崇拝ということだと思う。

9.「祖先祭祀とともに、メラネシア世界は神話的な形を失う」

 レーナルトによると死後の世界はメラネシアにおいては、祖先祭祀とともに神話的な形を失うという。なぜなら人々の生活する風土のそこここに祖先の魂が存在するからである。つまりこの世界は死者と生者がいる居住地を構成する一切のものを包含している。死者はこの全体のなかのどこかに位置を占めていて、神から区別されないと同時に世界からも区別されない(p.155)。

 「祖先祭祀とともに、メラネシア世界は神話的な形を失う」。これは、モーリス・レーナルトの『ド・カモ』のなかでも、もっとも重要な言葉のひとつだ。レーナルトは書いている。

 神々は地下の国で踊っているとされるが、夜に不毛の場所で岩や樹々と一緒に踊ってもいる。生者は、生者にふさわしい場所と死者にふさわしい場所を区別し、そういう「岩穴や樹のうろ」を選んで死体-神をおさめた。すると、そういう場所は、居住地や草原、山からなる全体と区別されなくなる。死体-神ということは、「人間が未だ自己を世界から分離することのできないほど世界に融即している段階に帰属するものである(p.105)」。

 レーナルトが言っているのは、他界が空間化の契機を持ち、また空間化された後でも、死者がそこで踊っていると観念されている間は、生者と死者はまだ共存している、ということだ。そこではまだ自己と世界は分離されていない。つまり、自己幻想も共同幻想も未分化なままだ。

 けれど、「「岩穴や樹のうろ」を選んで死体-神をおさめた」ときは、すでに生と死は分離の契機を得ている。ぼくの方からみれば、生と死が移行の段階に入った時、世界は神話的な形を失いはじめるのだ。死は、トーテム・センターや父祖の地への帰還であり、いずれ再生するという永遠の現在ではなくなり、死者がそこにいると思考されるようになったときだ。


『ハワイ・南太平洋の神話―海と太陽、そして虹のメッセージ』

『ド・カモ―メラネシア世界の人格と神話』


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