トーテムは生命を産出し、生を統括するものだと、モーリス・レーナルトは書いている。
トーテムの神話は、メラネシア人にとって、生命を生む世界すなわち情緒的生全体に関する認識の最初の様式であった。大切なのはトーテミズムの向こうにこの同一性があって、それがわれわれが未開人とよぶ人々の精神的および情緒的行動の鍵であることを理解することである。
ニューカレドニアのトーテムはとかげだ。レーナルトは、家のそばにおいて観察してみたことがあるが、「微動だにしない大木の幹にこのとかげがじっとしている様子は、さながら森と一体となった生き物であり、カナク人が自然の晴明とこのとかげとの間に、ある関係を設定したのも納得できるのである」。
ただ、メラネシアにおいてもトーテミズムは解体過程にある。解体過程にあるが、その死はゆっくりと進むので、全面的ではない。それは、伝説上の怪物に変質していく途上にあるが、まだ物語のなかに命脈を保っている。
怪物になって退治される物語、とかげが人間に変身して女性と婚約する話、人間を助けるとかげ。たとえば、バイの人々は、必要なときは鮫に助けてもらえると思っているが、もはや鮫をトーテムとは思っていない。それは、「守護の動物になる途上にある」。
トーテムは神々と接触することでも解体する。
ところでこの神々というものに体操する表象は曖昧なので、それがトーテムの姿を借りて表現されるということが起こる。そういう地方では、神の名とトーテムの名と山の名が同じになっている。伝統が生きいきと保たれていて、祖先という新米のものに巻けなかったという以外に、これは一体何を意味しているだろうか。
これらのことは、ことごとく琉球弧にも当てはまる。