ソールイガナシを頂点とする男性年齢階梯組織は、「かなり古い時代まで遡れるように思う」と指摘したのは吉成直樹だ(『琉球民俗の底流』)。
ソールイマッカネーでは、ソールイガナシが15歳の男子を伴って、各戸を訪れ、食物のもてなしをうけて、盃の交換をして家族の健康を祈願するとともに、儀礼用の神酒を集めて歩く。ソールイマッカネーの特徴は、仮面仮装の来訪神儀礼と同一系統にあることを示唆している。
カベール森の道の西側にアーマン権現という洞窟があり、この洞窟でアカマターと呼ばれる蛇を二匹とったところ、それは兄弟と姉妹であった(小島瓔禮、「イザイホー調査報告書」1979年)。
カベール森とは、ソールイガナシを加護する竜宮神のいる場所だ。これについて、吉成は、
久高島の来訪神、(ソールイマッカネー)が洞穴から出現する蛇であることを示唆するもの以外のなにものでもない。
と書いている。示唆深い指摘だと思う。
ぼくはソールイガナシが漁撈の長であることに関心がある。
ソーリィガナシは毎朝グルガーに瓢をもつてゆき沐浴してカベールの神に豊漁を祈願する。ソーリィガナシは庭に阿旦(パンダナス)の木を植えてウミジョー(竿)を立てておく。祝女や根神が農耕の司祭者であるのに対して、ソーリィガナシは海の神事の司祭者として、この地位にあるものは最早普通人ではないのである。この地位についたものは如何なる目上の人にも頭を下げて挨拶せず、合掌するだけである(p.53「久高島島の三月の祭」国分直一、1957年)
このソールイガナシの態度は、神として振る舞う際の祝女と変わらない。シュクに関する儀礼キスクマーイは、ソールイガナシによって取り仕切られる。
スクが寄ってくるか否かは、ソールイガナシに選ばれた人の徳によると考えられていた。そして島ではスクは海から"湧いてくる"と表現される。(後藤明『「物言う魚」たち』)
ソールイガナシは、呪術的効果が期待されていたわけだ。そして、それだけではない側面を持つ。
ソールイガナシは年齢順に、六十歳以上で村頭を勤めた者の中から二人選出される。任期は二年。任命を告げるのはニッチュである。ソールイガナシはいくつかのタブーがある。たとえば、島外に泊まることはできない。誰に会ってもけっして頭を下げないなど。また、祭の前には必ず禊をしなければならない。彼の家の屋内南側にはソールイ棚を設けて、タテマンのワカグラーという漁の神を祀り、庭の東隅にはアダンの木を植えてそこにソールイ棒を掛けておく。不漁の時は、彼は海へ投げ込まれたという。(下野敏見『ヤマト・琉球民俗の比較研究』
同じ神でも、「不漁の時は、彼は海へ投げ込まれ」ることは、祝女では決してあり得ないことだ。このソールイガナシの絶対的な態度と絶対的な服従とは、アフリカ的段階の王のあり方と似ている。吉本隆明は、ソールイガナシの、「如何なる目上の人にも頭を下げて挨拶せず、合掌するだけである」姿を、「これは本土における生き神(祝〔ほふり〕)のかたちととても似ている」(「イザイホーの象徴について」)と指摘しているけれど、海へ投げ込まれるのは大祝的だ。
ソールイマッカネーについて言えば、「蛇」と結びつけられていることもその古さを言うものだと思える。ソールイガナシから、竜宮神や来訪神的な被服を脱いでも残るのは、このアフリカ的段階の顔ではないだろうか。