伊波普猷の最後の著書になるという『沖縄歴史物語―日本の縮図』(1947年)は、与論島に触れた個所がある。
これらの神歌は、沖縄島の東岸といわゆる道の島との関係を歌ったもので、百姓一揆の頭となって、勝連の暴君望月按司を殺し、勝連の城主となって、後に尚泰久王位の駙馬となった阿麻和利が「沖渡より上」の航海権を握ったことを物語るもので、勝連半島の古老が、阿麻和利が道の島(おくとより上)を支配したと語っているのとよく吻合する。東恩納君の『琉球地名辞典』勝連の項に、昔はその十九村中に、与論という村があったが、後世廃された、ということを見えているのは看過すべからず事実で、現在この半島内にその痕跡の遺っていないところから考えると、これはかつて存在していたのが廃されたのではなく、属島の与論島が、慶長役後割かれて、大島諸島中に加えられた、と見るのが、真相に近い。人あるいは「おくとより上」の与論島が、かくもかけ離れた勝連の管轄であったことはちょっと受け取れない、と言うかもしれないが、しかし、それは交通上もしくは歴史的関係から考えられないこともなく、似通った例は古今東西に多いから、そのかみの例の委任統治時代の痕跡と見てよい。それはまた同一八六初北風がふしに、一 与論こいしの(神女)が
まとく浦(徳之島)に通て、
島かねて
按司襲にみおやせ
又 離島こいしのがにも現れているが、阿麻和利はおそらく沖縄から大島諸島に渡る足溜りなるこの小離島(こはなれ)に吏員(さばくり)を置いて、「おくとより上」に関する事務を司らしめたことも、例の神女が徴税に関係したことから容易く類推されよう。(p.83)『沖縄歴史物語―日本の縮図』
なんと阿麻和利が与論に関与したというのだ。その可能性はあるだろうか。毎度のことながら、検証するための材料に乏しい。
ただ、「人あるいは「おくとより上」の与論島が、かくもかけ離れた勝連の管轄であったことはちょっと受け取れない、と言うかもしれない」ことについては、伊波以上に確信を持つことはできる。勝連と与論は遠くない。遭難したナータイジレーは平安座島に漂着し、花城は与那原の港から舟を出し与論を目指す。潮と風を母体に描かれる船の流線は距離を縮めるのだ。
王舅のあと、与論に支配権を振るったのは護佐丸だと思える。護佐丸が座喜味城築城のため、島人を駆り出したのは、北山監守をしていた1416年から1422年の間のどこか。阿麻和利は与論に支配権を振るったとしたら、1422年以降、没する1458年までの間だということになる。
間に挟めば、1431年、中山王の尚巴志が明に当てた公文書に、「本国も海上の小山、地名、由魯奴なる地方に至り」とあるが、「由魯奴」は、「ゆるぬ」と読め、いかにも「ゆんぬ」に当てた漢字だ。護佐丸の伝承が残り、1431年の公文書の記録があるということは、北山滅亡後は、中山の支配下という形で琉球王国に組み込まれていたと見なしてよいと思える。
後半に焦点を当てれば、あの1471年の「琉球國之圖」が作図された時期に近いということも言える。与論こいしのおもろの他、勝連おもろ群を見れば、勝連の勢力圏内に与論があったとしてもおかしくはない。(cf.「玉の御袖加那志の与論」)
ここで、与論島内に根拠を求めようとすれば、浮上するのはプサトゥ・サークラだ。プサトゥ・サークラの与論への来島は、プカナ、ニッチェー、サトゥヌシの後だから、年代としては14~15世紀が想定される。そして、プサトゥは、ウプサトゥの「ウ」が脱落したものとみなせば、大里が復元できる。「小離島(こはなれ)」としての与論を「足溜り」として利用した際の「吏員(さばくり)」がプサトゥだと考えれば、彼らを勝連近くの大里に出自を持つものだと見なすことができる。それは花城一族の形成したサークラが、グスクマ(外間)であるのと同じことだ。
しかし一方、北山監守の存在や、なんと言っても「琉球國之圖」の北部に巨大に描かれる国頭城の存在が気になる。ただ、どちらにせよ王舅、護佐丸以降、花城来島までの与論は、首里、勝連、国頭、今帰仁をはじめとした勢力が行き交い、落ち着かない日々だったのではないだろうか。
ところで、これが書かれたのはもう60年以上も前のことになるから、歴史学は既にこの考えを退けているかもしれない。が、与論の島人が歴史をつくろうとすれば、辿るべき想像と検証の素材にせざるをえない。そうするしかないのだから。