「瀧家文書」解説への注記 2
昨日の続きで、「瀧家文書」について先田が加えた解説への注記(『与論島の古文書を読む』)。 5.派遣藩士の接待と仮屋(在番所)の入用品 代官の視察の際、過剰接待の禁止。 6.琉球との交易 1659年記録の与論島の舟。 5枚帆 1艘 3枚帆 1艘 刳舟 43艘 下記は、琉球への渡航申請にある舟型と乗員名。1830年代。 刳舟壱組 船頭...
View Article[改] アンジニチェーの時代
与論の按司時代を象徴するのに、アンジニチェーの右に出る者はいないでしょう。彼はアージニッチェーともアージンチェーとも呼ばれ、島で最も名高い伝説上の人物でもあります。...
View Article佐渡山豊、山之口獏をうたう
昨夕、新宿中野の古民家レストラン、モモガルデンに、山之口獏の詩にメロディを添えて歌うアンプラグド・ライブに行ってきた。 歌うは、シーサーズ、山下由、佐渡山豊。シーサーズの「座布団」は二重唱が心地よく、山下由の「紙の上」はご当人のパフォーマンスも楽しく、佐渡山豊の「会話」、「紙の上」、「弾を浴びた島」などは、パーカッション、サックスも加わり、音色も豊かだった。...
View Article与論節
『沖縄の古謡 沖縄諸島編 下巻』 で、「与論(ゆんぬ)節」を聴いた。国頭は与那の七月舞の曲だ。いらぶとぅ ゆんぬとぅ ゆんて ちるりだきぬふし あふさだき ゆんて ちるりソーラ ユンテ チルリ スリくんじゃんさちから ふにぬ みゆんどしらふや ささぎてぃ まえんかてぃソーラ ユンテ チルリ スリあはから うふしま さんにりえあはぬうふがに はして かきてぃソーラ ハシ カキティ...
View Article四十にして惑々。五十にして天命を知る、か?
十年に一度の区切りだから書いておこう。 四十代が終わるのだけれど、それが嬉しいときている。 四十になる直前は、ジョン・レノンより年上になってしまうことをうまく受け入れられずにいた。浮かない感じで始まったわけだけれど、次第にそれでは済まずきつくなっていった。 自分で長期の呪いをかけてしまったのかもしれないが、四十代はきついと呟くやうになっていった。そして、実際、きつかった。...
View Articleユントゥクが読み解けない
ユントゥク・サークラをプサトゥ・サークラの後、グスクマ・サークラの前と位置づけると、その来島の時期は、15世紀後半、ということになる。勝連間切になったとしてそれ以降から、花城来島までの間だ。...
View Article「ゆんぬ」はなぜ、「与論」になったの?
与論の謎のひとつは、なぜ「与論」という漢字の島名になったのか、ということです。 考えてもみてください。島では与論のことは、「ゆんぬ」と呼んでいるのですから。他島からもそう呼ばれていたし、沖永良部とセットのときは「ゆんぬえらぶ」と呼ばれていたわけです。それが、なぜ漢字では「与論」と記されるようになったのか。...
View Article与論人の祖先はヤドカリだったって本当?
「人間(ミンギヌ)ぬ始(パジ)まいやアマンからどぅなてぃてゅんまぬい」 人間はオカヤドカリからなったそうじゃないか。これは与論の郷土史家、野口才蔵が子供の頃、叔父から聞いた話です。...
View Article家名・童名・学校名
東恩納寛惇の「琉球人名考」(1924年)によると、「家名は公称しては、苗字又は名字と云ふが、普通俗称では、家(や)の名(な)(ヤ-ンナー)と云ふのである」(『東恩納寛惇全集 6』)とある。「平民には元来家名はない」とも。...
View Article琉球本島の童名一覧
東恩納寛惇の「琉球人名考(1924年)」(『東恩納寛惇全集 6』)を手がかりに、与論のヤーナー(童名)に対する理解を深めてみたいと思う。 まず、東恩納が「琉球本島」のほとんど全てを網羅したという童名から、接頭美称のつかない平民のものを音をカタカナ表記で列記する。うち、単純に与論と同じと分かるものに印をつけてみる。トゥク ○グラ ○マツー ○ジラ タルー ○カナー ○カミ...
View Article童名 マニュ
ぼくのヤーナーはマニュだ。もう数十年前だと思う。何かの資料で、眞仁勇という文字を見つけ、この漢字を当てて使っている。けれど、これは新しく当てはめた文字で古形をとどめたものではないと思う。そもそもどんな含意を持っているかは知らない。与論の男性ではポピュラーなヤーナーでもある。 残念なことに、東恩納寛惇の「琉球人名考(1924年)」(『東恩納寛惇全集...
View Article童名 ウシ
ヤーナー、ウシもポピュラーだが、これは「おもろそうし」にも美称をつけて登場するし、分かりやすい。あの護佐丸の童名も、「真」の美称辞をつけて、「真牛」、「まうし」、「もーし」だ。 字は「牛」が当てられるが、実際、開墾に不可欠で身近な存在であった牛に由来するのではないだろうか。東恩納寛惇の「琉球人名考(1924年)」(『東恩納寛惇全集 6』)でも、「極めて普通の名」(p.398)であるとしている。...
View Article使者としての王舅名
東恩納寛惇の「琉球人名考(1924年)」(『東恩納寛惇全集 6』)では、古書に登場する人名にも検討が加えられている。道すがら、王舅の名についいてもヒントがあるので、メモする。 12.1403年、03月09日、攀安知、善佳古耶、臣、方物、鈔・襲衣・文綺 13.1404年、03月18日、攀安知、亜都結制、__、方物、銭・鈔・文綺・綵...
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