ユントゥク・サークラをプサトゥ・サークラの後、グスクマ・サークラの前と位置づけると、その来島の時期は、15世紀後半、ということになる。勝連間切になったとしてそれ以降から、花城来島までの間だ。
この間に訪れたとしたら、考えやすいのは、阿麻和利の没後に尚巴志が、官吏として送り込んだ存在があるのではないかということ。プサトゥ、グスクマに倣って出身の地名を背負って名づけをすると見なすのだが、ユントゥクにつながるような地名を見つけられない。
一方で、ユントゥクは、官吏には関わらないと思わせることもある。サトゥヌシ、プサトゥ、グスクマは、ぼくの仮説に従えば、島の統治に関わる者として来島している。このうち、サトゥヌシ、プサトゥについては、それぞれスーマ、パンタという別称を持っている。スーマにしてもパンタにしても、地名名称だけれど、この2サークラについて別称があるのは、グスクマ・サークラが背景とする第二尚氏による抑圧ではないだろうか。サトゥヌシにしても、プサトゥにしても、第二尚氏にしてみれば、打ち倒した敗者の由来を、その名称が持っている。それが、地名名称による別称化を促した。
この側面からいえば、ユントゥクは別称を持っていない。それは、サトゥヌシ、プサトゥ、グスクマとは異なり、琉球王朝の権力を背景にしていないのではないかと思わせる点だ。
もうひとつ、考えられることがある。ユントゥク・サークラは、アイスヌ(女神)、マクロク(男神)と、アマミク、シニグクとは異なる神を祀っていることだ。シニグには参加するので、これは矛盾しないということなのだろうが、特異な、強い信仰集団であることをうかがわせる。アマミク、シニグクとの連想から言えば、勝連ゆかりの視点とは逆に、北方からやってきたのではないかと思わせる。野口才蔵の『南島与論島の文化』には、ユントゥク・マチャンは、寺崎(p.85)とあり、それも北方経由の暗示に見立てたくなる点だ。
ユントゥクから連想される語は、「言」、「弓」、「徳之島」、「トゥク系の童名」。
ユントゥクが読み解けない。