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Channel: 与論島クオリア
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1614年の輿留濃地頭職

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 与論が「輿留濃」と記されたことがあったのを知る、「姚姓又吉系譜伝」の記述。

輿論島  沖永良部島より南西約十七浬、沖縄島の北端より約十浬の海上にあり、周圍約三里、方一里に充たず。方音「ユンヌ」輿留濃に作り明人繇奴に作る。沖永良部と連稱して「ユンヌエラブ」と云ふ。古へ國頭並輿論永良部等の地方、共に「奥渡より上の扱理」の専管たり。姚姓又吉系譜伝、「萬暦年間、叙築登之座敷、敍黄冠、而後任惠良部島地頭職。萬暦四十二年甲寅、任輿留濃地頭職。」主邑茶花島の西端に在り、赤佐又赤座に作る。茶花は謝花と同格の地名なるべし。(『南島風土記―注釈 沖縄・奄美大島地名辞典』(1974年)

 萬暦四十二年、つまり1614年に与論の「地頭職」に着いた者がいる。「又吉系譜伝」のなかに出てくる記述だから、花城一族ということになるが、「基家系図」を見ても、これが家系図みたいなものだからか、誰か判然としない。でも、1609年以降に首里近傍から着任した者がいたということだ。与論の前に「惠良部島」の地頭に着いているから、沖永良部島を調べれば分かるだろうか。

 もとは、「叙築登之座敷、敍黄冠」とある。「築登之座敷」は、里主であり一般士族に当たる。親方、親雲上より格下ということだ。しかし、「黄冠」は中級士族で親雲上(べーちん)を表すから矛盾している。「築登之座敷」だったが、親雲上(黄冠)に昇格したということだろうか。

 与論に来た時、黄冠、着けてきたんですかね?


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