「人間(ミンギヌ)ぬ始(パジ)まいやアマンからどぅなてぃてゅんまぬい」
人間はオカヤドカリからなったそうじゃないか。これは与論の郷土史家、野口才蔵が子供の頃、叔父から聞いた話です。
子どものころ、潮待ちで浜辺のアダンの下で休んでいて、何げなしに側の叔父に「人間の始まりは何からなったのだろう」と問うた。叔父は、前をコソコソ這うて行く子ヤドカリを見ながら「人間ぬ始まいやアマンからどぅなてぃてゅんまぬい」と、にっこりと言われた。それが今だに忘れられない。
その後、壮年期になって、入墨の話を聞いたり読んだりしているうちに、われわれの遠祖の先住民とのかかわりのあることに触れ、あの叔父の言われたことが冗談ではなかったこと、しかも重要な伝承であったことに改めて深い関心を持った。((野口才蔵『与論島の俚諺と俗信』1982年、p.253)
人間の祖先がヤドカリだって?そんな馬鹿な、と思うかもしれません。そう思うのも自然なことです。でも、これは本当のことだと思います。本当って、人類の進化は辿っていけばヤドカリになるということではなく、そう信じられていたことが本当だということです。
証拠はあります。野口も書いているように針突(ハジチ)がそれです。与論でも少し前までは、ハジチを入れたウバ(沖縄のおばぁ)に出会うことができました。まだ、島のどこかにはいらっしゃるかもしれません。あれは、自分の祖先を描いて、そのつながりを示したものでした。1960年代にはまだその言い伝えを覚えている方もいて、沖永良部島では、先祖は「アマム」から生れてきたから、その子孫である自分たちも「アマム」の模様を入墨をしていると答えたという聞き取りがあります。
どうしてそんな風に思えたのか?人間と他の存在を区別することに慣れているぼくたちはうまく理解することができませんが、これは、昔、人間は動物や植物などの生き物と自分たちを区別しなかったということです。そんなに遠い存在ではなかった。
島に最初に辿り着いた島人たちが、海岸近くの洞窟に住み始めたとき、自分たちよりもはるかに多く生息しているヤドカリを目にしたことでしょう。ぼくも子供の頃、海近く住んでいましたがありましたが、魚釣の餌のために、夜、家のまわりを一周しただけで、バケツ一杯のヤドカリを簡単に取ることができました。アマンが祖先であるという考えは、そんな共生のなかから生まれたのではないでしょうか。
与那国島や八重山にも、同じ伝承は残っています。与那国島では、はじめヤドカリを弓矢で島に放ってしばらくしてから再び訪れてみるとヤドカリ繁殖していたので、人も住むことにしたという言い伝えがあるのも、自分たちとヤドカリをあまり区別していなかった観念の延長にあることを示唆しています。
でも、信じられないと言っても、ペットを飼っている人には犬や猫の気持ちがよくつかめる人がいるし、樹の状態がよく分かる人もいて、人はそういう感覚を身体のどこかに残していて、最近では憧れてすらいるように見えます。ぼくの祖母も動物たちが自然に近づいてきて、まるで会話ができるように見えたものです。そう、昔は誰でも交感しあえたのではないでしょうか。
そういう目でみたら、浜辺のアダンの下で、叔父からその話を聞けるって、最高の経験です。
琉球弧では、大昔のことをアマン世ということがありますが、それはヤドカリ時代のことで、その意味は祖先をヤドカリと信じていた時代ということではないしょうか。