十年に一度の区切りだから書いておこう。
四十代が終わるのだけれど、それが嬉しいときている。
四十になる直前は、ジョン・レノンより年上になってしまうことをうまく受け入れられずにいた。浮かない感じで始まったわけだけれど、次第にそれでは済まずきつくなっていった。
自分で長期の呪いをかけてしまったのかもしれないが、四十代はきついと呟くやうになっていった。そして、実際、きつかった。
思えば、四十代のどこかで、無条件の肯定力を持っていた祖母と父を亡くした。それもきつさが増し、続く理由にもなったろうが、このブログもそういう目でみれば、それをしのぐために書いてきたようなものかもしれない。そもそも書きはじめたきっかけが、天寿を全うしかけて眠る祖母の横で、与論のためになることを何もしていないのにうろたえて、あわてて立ち上げたことだった。これから書いていきます、という所信表明のようなことがせめてもの報告だった。
不惑どころでは全くない。惑惑だった。その四十代が終わろうとしている。
何の根拠もないのだけれど、終わるというだけで、ことの他嬉しい。劇的に何かが変わるわけでもなく、引きずるものは引きずると分かっていても、ただ終わるという、そのことにほっとする。四十代はきつかったと、先取りして言ってしまう。
四十を前にして不惑の予感はまるでなかったのに比べ、天命を知ることは、不惑よりは分かるところがあるような気がするのも救いだ。
長かった。
さようなら四十代、さようなら色をなくした日々。