この本は、主に2004年から2010年までのエッセイや講演録を元にしているから、2015年の現状に対応したものではない。けれど、現在にも耐えうるタフなエッセイ集だ。
共感し、多くのことを学んだが、ここには数少ない、唯一と言ってもいいかもしれない、小さな違和感の方をメモしておく。ダグラス・ラミスは書いている。
同化・皇民化教育を受けていた「二流臣民」は、一九四五年の段階で、日本民族から離れ、別の国の国民になったと書いたが、言うまでもなく、その中の一つは戻ってきた。それが沖縄だ。沖縄の復帰は沖縄にとってよかったかどうかに関して議論があるが、ここで問題にしたいのは、復帰が日本の自己意識に対してどう影響をしたかということだ。帝国の下で支配していた地域をすべて失うことと、その一つを持ち続けることとは、かなり違うだろう。「沖縄大好き!」と言いだす日本人が多いのは当然だ。そして、あんなに多くの日本人(毎年沖縄の人口の四倍ぐらいの数)が沖縄に観光する理由もわかるだろう。美しい海ではなく(本土にも美しい海はある)その純植民地的な雰囲気が魅力なのだろう。沖縄が日本に戻ってくることによって、日本人の優位民族の自己意識が具体的な対象が帰ってきた。それを感じさせることが沖縄の「癒し」だろう。
このところで、ぼくはぎょっとした。「日本人の優位民族の自己意識」があるのだろうか、と驚いて、驚きのあまり、考え込んでしまった。最近のあからさまなヘイト・スピーチを見ていても、個別にはいるだろうことは分かる。しかし、「沖縄」の「癒し」が、「日本人の優位民族の自己意識」であると一般化できるだろうか。
ダグラス・ラミスは続けている。
日本国憲法は戦後日本人の思想と行動に大きな影響を与えたはずだと書いた。しかし、憲法と同じぐらい、あるいはそれ以上の権威をもつ法律文書がある。それが日米安保条約だ。
この安保が、戦後日本人の自己意識に与えた影響は何だろう。
普通の、安保に反対しない日本人に、日本にある米軍基地について意見を聞くと、以下の四つの答えのうちの一つが返ってくるだろう。
(1)われわれにとって米軍基地は不要だが、アメリカのような強い国の要望を断ることは無理だろう。
(2)日本を敵国から守れるのは、アメリカだけである。
(3)安保条約があって始めてわれわれの大事な平和憲法を守れる。
(4)米軍基地がなければ、日本の右翼は復活し、また軍国主義になる。
この答え方の共通点は、アメリカに対する下位意識だ。この文脈の中、「沖縄の癒し」はありがたいだろう。その侮辱的な米軍基地のほとんどを沖縄に置くと、侮辱感は減る。安保条約の具体的な結果、つまり基地と米軍は本土で薄い存在になる。沖縄にある基地を見に行く楽しみもある。日米安保条約の恥は日本の恥ではなく、沖縄の恥だ、と。そして、沖縄にある米軍基地は、日本の沖縄に対する優位性の具体的な証拠だ。それを見ることで、日本の優位を肌で感じることができる。日本人が「沖縄大好き」と言い、行くと気分がさわやかになるのは、「無理のない」ことだろう。
ここでもぎょっとするわけだが、半歩進んで、「沖縄にある基地を見に行く楽しみ」を持つ人がどれほどいるだろうか、という疑問が浮かぶ。沖縄に旅行するほとんどの人は、目の端に基地が入らない限り、意識することすらないのではないだろうか。
この本の後半の方で、もう少し問いを進めることができる。
つまり、主流世論を代表している個人は、以下の考えを持っている人だろう。1 私は平和を愛している人です。平和憲法の日本に住んでいるのは、居心地よい。憲法九条をなくすのは、反対です。
2 日本の近くに怖い国があるので、米軍が近くにいないと不安です。もちろん、この二つの意見は見事に矛盾していて、一つの社会の中で、または一人の個人の頭の中で成り立つはずがないだろう。その成り立つはずのない、二重意識はなぜ崩れないのか。
答えは沖縄だ。
日米安保条約から生まれる基地を「遠い」沖縄に置き、基地問題を「沖縄問題」と呼ぶ。基地のことを考えたいとき(福生や横須賀ではなく)「遠い」沖縄まで旅し、「ああ、大変」と思い、平和な日本へ戻ってくる。つまり、軍事戦略の要石として沖縄の位置は特によくないが、日本の矛盾した政治意識をそのまま固定するために、遠いけれども遠すぎてはおらず、近いけれども近すぎてもいない、ちょうどいい距離だ。
その「距離」とは、地理的なことだけではない。ヤマト日本人の(潜在)意識の中で、沖縄は二つあるらしい。ひとつは日本の一部としての沖縄で、もうひとつは海外としての沖縄、である。日米安保条約の下で、米軍基地を日本に置かなければならない。沖縄は法的には「日本」になっているので、なるべく多くの基地を沖縄に置けば、条約の義務を果たすことになる。また、平和憲法の下で日本本土に外国の軍事基地を置くことはふさわしくないので、なるべく多くの基地を「海外」の沖縄に置けば、自分が平和な日本に住んでいるという幻想を(辛うじて)維持できる、ということだ。
これは、沖縄が要石となっていあるアーチの応力図だ。そのアーチが崩れないためには、もうひとつの条件が必要である。それはなるべく考えないということだ。だからこそ、もっとも聞きたくないのは、基地の県外移設のことだ。その話は、アーチの要石を抜くことになるので、極めて怖いのである。自分が支持している(または大して反対していない)安保条約は、米軍基地を自分の住んでいるところに置く、という意味の条約だということを、なるべく考えたくないのだから。
「二重意識」が崩れないのは、「沖縄」との「距離」だというのは、半ば同意できる。同意できるのは、本土で基地問題が顕在化しないのは、基地が不可視化されていることが関与していると思える点でだ。同意まで至らないのは、わざわざ基地を見に沖縄に行くという行為が行なわれるためには、「1」と「2」は矛盾であると意識されているのではないかと感じられるからだ。それよりは、「1」と「2」が矛盾と意識されないほど隔たっている、そこに道筋がつけられていないことが、問題になるのではないかというのが、ここから感じることだ。つまり、ここで取り上げられている個人は、「主流世論を代表している個人」ではないのではないか。
もう少し先に、こうある。
であるならば、平和ツアーに参加する本土日本人は、実際何をしに来るのだろうか。沖縄戦の跡地、資料館などを見て、「最後の地上戦が本土ではなくてよかった」という(潜在意識の)考えは、かなりの癒しにんるだろう。そして、米軍基地がどれだけ迷惑で侮辱的な存在であるかを学び、「絶対に米軍基地を私の住んでいる場所に置かせない。沖縄はかわいそうだけれども、やっぱり沖縄に置くしかない」と、基地はちゃんと沖縄に片付いてあるのを、自分の目で確認することも、気持ちのいい癒しになるだろう。
そのような感覚がまったく入っていなければ、「沖縄旅行」と「反安保」との無縁さをどう説明すればいいのだろうか。
ここまで来てようやく、ダグラス・ラミスが対象にしているのが、「平和ツアーに参加する本土日本人」であることが分かった。それなら、ダグラス・ラミスの言う構図は、想像することができる。想像することができるが、「沖縄」に対置させるなら、「平和ツアー参加者」ではなく、参加を思いつきもしないようなふつうの人にして、ぼくは考えたい。