学術書を書くわけではないけれど、察するに読まれないという危機感に立って書かれたものだろうと思い、そこをどう克服しようとしているのかに関心があって、『学術書を書く』を手に取った。学術書ライティングのマーケティング化という印象だ。
ここにある危機感は、かつては、「Publish or Perish(出版(発表)か、死か)」というフレーズが、研究成果を発表しない研究者への批判として使われてきたが、読まれなくなることで、「Publish and Perish(出版しても救われない)」時代になったということだ。だから、マーケティング化と言っても、今の本によく感じるような誇大広告化を目指したものではない。もっと実直なものだ。
そもそも学術書は、読まれにくく書かれていると思ってきたが、それは偏見だったようだ。少なくとも70年代までは、本は越境性が意識されていたから、「何のために」「誰に向けて」書くかが強く意識されていた。「教養」も死語ではなかった。しかし、オンライン化の時代には、
読者を基底する物質的要因が消失してしまったために、読者を問題にするという強い意識が働きにくくなってしまった。極端にいえば、学術的な内容を発信する側が、それを受容する人々を意識しないですむようになってきているのではないでしょうか。
と、最近のトレンドだと位置づけられている。
そこで、著者が考える本にふさわしい学術書は、
総じていえば、狭義の専門書であれば、「パラダイム志向的(越境性が意識されている-引用者注)」、また概説書でいえばある程度大部で体系的なもの、入門書でいえば「歯ごたえのある」、現場の困難が伝わるような挑戦的な内容のものが、今日、本にするに相応しいと筆者は考えているのです。
以下、自分の関心にひっかかったことを引いていく。
なぜ○○を研究するのか、○○について論じるのか、という序章(序文)を、本書では「宣言的序文」と呼ぶ。「著者の思いを、想定した読者の関心のありように応じて丁寧に示すことは、読まれる学術書にとって最も重要な要素です」。これは、昔から「書き出し10行、10頁」と言われてきた。
「思い切った議論を提示するという姿勢」。
本全体の議論の行き先を思い切った高みに置いてしまう大胆さ、これまでの研究史や通説を乗り越える(乗り越えうる)、あるいは不明であった点を説明する(説明しうる)といった、文字通り「パラダイム志向的」な議論は成功する本に共通しているといってよいでしょう。
「気弱な記述」を避ける。
可読性を下げる要因となるのが、「~と思われる」「~と推測される」「~と考えられる」といった表現の多用。文章のリズムと相まって読者には気になる。読者は、「著者の思いきった議論を待っている」。できるだけ、「だ」「である」と言い切るか、せいぜい、「~といえる」「~といえよう」、時に、「~といえるのではないか」という問いの形式。
あえていえば、「二回り外、三回り外」の学問領域になにがしかのインパクトを持っていると自ら信じることの宣言です。あえていえば、そうした宣言ができない研究は、本にする必要はありません。
本のタイトルや見出しを決めることは、「まず旗を立てること」。
成功するタイトルに共通するのは、手に取る者に「何これ?」と思わせる魅力」。
本の内容を「説明している」のではない、「ここが面白い」「一言でいえばこれだ」と宣言しつつも、読んでみないと分からない、と読者の疑問や興味を誘っているところが、ポイントでしょうか。
「索引」は、読者に本全体のメッセージを示すツールにもなり得る。「読者が索引を眺めたとき、その本の扱うテーマと議論の概略がイメージできるような、また実際に索引を引いたとき、読者に、意味のない索引指示であると感じさせないような工夫」。「定義や概念についての解説がまとまって述べられている部分に限って頁数を掲載」。
学術界はどう克服しようとしているのかという問題意識で読み始めたが、次第に書き手としての関心事に移っていってしまった。また、筆者たちは、wordで入稿すれば、瞬時に上がると思うのは大間違い、というWeb業界にも通じる誤解を解くことも忘れていない。
鈴木哲也、高瀬桃子『学術書を書く』