福寛美の整理をもとに、ニライと「根の国」について、仮説しておく。
福は、『沖縄と本土の信仰にみられる他界観の重層性』のなかで、ニライと「根の国」の相似性について、整理している。
ニライ
1.祖神のまします聖域で、そのためにすべての根となり基となる所。根所。
2.死者の魂の行く所。穢れた底の国。
3.地上に豊穣をもたらすセヂ(霊力)の源泉地。
4.海の彼方の楽土。常世の国。
根の国
1.黄泉の国
2.大祓いの際、国中の罪が祓いやられる。
3.オホナムヂは、根の国でスセリビメ、生大刀、生弓矢を手に入れ、豊穣の神、大国主となりえた。(根の国=豊穣の源)
4.根の国は富みと長寿の明るい理想郷として海神の国、さらに常世の国へと変換させられた。
(前略)ニライと日本神話の根の国、常世国とは密接な関係があった、と推定できる。すなわち同じ他界観を日本古代には根の国、または常世国と呼び、沖縄ではニライと呼んだ、ということである。日本神話世界では根の国の一面が常世国=永遠の理想郷とみなされている。沖縄でのニライは生の輝きも豊穣の実りも死の恐怖も地上に害をなすものも、あらゆる聖なるものと穢れたものを包み込んだ他界である。
これをぼくの言葉に置きなおしてみる。ニライは、生と死の「分離」のあとに、生と死の「移行と円環」を捉えたもの。
「根の国」も、生と死の「分離」のあとに、生と死の「移行と円環」を捉えたものであるのは同じだ。これが相似性を持つ理由になる。ただ、「根の国」は、「黄泉の国」と一部重複しながら、「黄泉の国」とは別の側面も持つ。つまり、『古事記』においては、生と死の「移行と分離」の両方を捉えた「黄泉の国」が自覚的に捉えられている。また、福が言うように、「常世国=永遠の理想郷」は、「根の国」の一面であるように、「移行」と「円環」も自覚的に捉えられている。
ニライが「未分化」な状態に見えるのは、生と死の「分離」のあとにも、「移行と円環」が濃密に存在したからだ。「黄泉の国」を分離するようには、生と死が「分離」されなかったのだ。したがって、「根の国」のように、「移行」を示す段階を独自に取り上げることもなかった。ただ、「分離」を経ていることは、ニライが「海の彼方」に遠隔化されていることに示されている。