大田昌秀の『沖縄の民衆意識』を読んだ。分厚くて最初たじろいたが、ジャーナリストの筆致で読みやすかった。ただ、書名に「民衆意識」とあるが、主に「琉球新報」、「沖縄新聞」、「沖縄毎日新聞」の動向や記事に拠るところが大きく、そこから推し量る「民衆意識」は、掘り下げるべき余地を残していると感じた。むしろ、大田が浮かび上がらせているのは「知識人の意識」だと思える。
たとえば、近代以降の皇民化の動きに対して、「琉球新報」は書いている。
故に吾人はこれを称して中央の政治家木馬に鞭うつの策という。けだしその数十万の人民をして彼らの父母を忘れしめ、彼らの歴史的記憶を湮滅し去りその人民の上に政治を施行せんと欲す。これすなわち県民を以って木馬となしこれに騎せんと欲するものにあらずして何ぞや。騎士如何に名手なりとするも、これに鞭うって何等の効果あるべからざるなり。幸いにして県出身の教育家中その人あるあり中央政府のこれらの政策に反対し、これをとりやめさえ本県人民をしてその由来するところをあるを知らしめ、以って鼓舞作興するところあり(1906(明治39)年)。
大田は、「国民的同化」を鼓吹することを編集の基本方針にした「琉球新報」でさえ、こう書くようになったと指摘している。
また、島袋全発の「郷土人の明日」について、大田は書いている。
彼は、日本国民は、同化吸収の力に富んでいるから琉球人や朝鮮人の民族性を殊更に破壊しなくてもこれを同化することはたやすいことである。だから沖縄的なものを抹殺すべきではないし、いっぽう、県民自体も自らの長所は、人為的に伸ばし、一そう深くその国民性の内容を豊富に形づくるべく努めなければならないということを強調した。
大田はこれを、「沖縄学」の台頭と同様、「けっきょく、より早くより完全な形で皇民化を促進しようとする時流の一側面でしかなかった」と指摘している。あるいはここには、柳田國男の民俗学が皇民化を補完したという、ときに見かける主張のような側面が胚胎しているかもしれない。けれど、琉球弧の場合、結果的に「民族性を殊更に破壊」することになったのだから、「琉球新報」や島袋の主張のようにはならなかった。また、大田は「時流の一側面でしかなかった」と書くが、それでも、彼ら知識人たちの主張が力を持てば、皇民化の一側面に過ぎなくても、「民族性を殊更に破壊」することにはならなかっただろう。
でさえ、という意味では、「クシャメすることまで他県人を真似よ」と、説いた大田朝敷ですら、こう述べたという。
日本は、きわめて長い期間、封建割拠的生活をへてきたので、言語風俗から住民の気質に至るまでいずれの地方も、かなり濃厚な地方色を帯びている。ところが、他の地方では解し難き方言を聞かされ、異なった風俗を見せられても、誰も怪しみもせず、そのためにその地方人の評価を軽減するようなことはない。が、ひとりわが沖縄県にかぎりなぜ総体的に差別待遇を受けなければならないのか。
これは、言語風俗の相違から来るのか、気質や性格に相容れぬところがあるのか。民度に甚だしきへだたりがあるためなのか。種族が果して他の地方と異なるのか。あるいは、この他になんらかの原因が存するのか? と反問し、本県にたいする差別観念の由ってくるところを深く考慮し、その因果関係を明らかにするのはわれわれ沖縄県民たるものの、けっして軽々に看過すべき問題ではない。
同化を主張していた人士でさえ、反論をするに至ったのに、なぜ、それは実現できなかったのか。大田は、教育界について、「郷土史も教えるべきだとする地元の教員とそれに反対する他府県出身の教師との間に隠微なあつれきがあった」と指摘する。
この、「“沖縄的なもの”を蔑視する外来者の言動が、つねに蔑視感に苦しめられてきた地元民を刺激したといってよい」。大田によれば、下駄は相手に預けられているわけで、責任は相手にある、と言っているのだと思える。
それはそうには違いないのだが、ここから民衆意識の掘り下げをしてほしいところだ。それはなされていないので、ぼくはここに民衆の積極的なのめりこみを見る必要があるのだと思う。そうでないと、この問題を充分に、自分たちのことに引き寄せられない気がする。
この分厚い研究のなかで、大田は実に丹念に「知識人の意識」を追っていると思えるが、その大田自身が、もう少し、近代沖縄の「知識人の意識」からはみ出たところで書いてほしいという欲求が湧き上がってくる。
大田は、「日本にとって沖縄とは何か、沖縄にとって日本とは何か」と問うている。「日本にとって沖縄とは何か」。領土拡張の欲求にかなった辺境であり場末である。「沖縄にとって日本とは何か」。近代に武力で併合を強いた文化の近い民族国家である。というのが初期形であ。そして、この初期の認識を日本はまだ脱し切れておらず、政権によっては露骨に再生している。というドライだけれど、これ以上の意味を国家に付与させないことが必要はのではないだろうか。これを「果てしない」問いにしない。つまり、そこに「祖国」というような過度の期待心情を持たないこと。それが、相手を過剰に見ないために必要なことだという気がする。もちろんここで、国家と社会は区別して捉えるわけだ。