あとがきに、「ただ、昼寝の前に本を読む。興味をもった事柄の本を読みながら、その興味を身体に入れていく。で、眠くなる。この本もそんな本であって欲しい」とあったのが気に入ったので、夜、眠る前に読んでいたら、列島に息づいた精霊たちと眠りにつけるようで心地よかった。
ただ、文字を持たなかった時代の琉球弧の精神史を探究してきた者にとっては、興奮してかえって目が冴えることもしばしばだった。
たとえば、宮城県登米市の民家のカマガミ。
「炎と煙に燻された柱の上部から、訪れる者をギョロリと睨みつける異形の面。旧仙台藩領の古民家には。カマドやイロリの上部にカマガミ・カマオトコなどと呼ばれる大きな面を掲げる風習がある。
冒頭のところでは、物珍しい気分で読んでいたが、しかし、
カマガミのルーツであるカマド神は、三方荒神や土公神とも呼ばれる荒々しい性格であって、常に死の存在感を漂わせた「異質な神」であると宮本常一は鋭く指摘している。たとえば、西日本には十月に神々が出雲に集まるという伝承があるが、カマドの神だけは家のなかに留まっていると考えられた。カマドの神はひと時も休むことなく死を生に変える「常在神」であり、ほかの神々と違って旅をすることも、空間を異同することもないのである。
これは示唆多い。そうか、琉球弧の「火の神」は、家のなかの常在神と捉えればいいわけだ。主婦が管理するというのも頷ける。主婦は、家のなかの「をなり神」なのだから。そして、火の神は、ニライカナイへの「お通し」の機能を持つ。つまり、家屋内御嶽なのだ。
そんな気づきの多い、楽しい本だった。
それにしても、琉球弧は、カマドガミのような偶像化をしない。それは特徴だという気がする。