前に、琉球弧の「オー」の島は、アフ、アヲが結果的には、地先の島という距離概念に転化する意味を持つようになったと書いた(cf.「青の島は、間を置いた島」)。筒井功の『「青」の民俗学』を読むと、どうやらその事情は、本土も変わりがないようだ。
筒井は、16の海の「青島」について、島の大きさと対岸からの距離を書いてくれているので、それを図にしてみる。
(縦軸は「対岸までの距離(m)」、横軸は「島の周囲の長さ(m)」)
大方の島は、島の大きさに関わらず、1キロ以内の距離に島があることが分かる。ただ、この図では、愛媛県大洲市長浜町の青島の例が、島も大きく距離も長いので、これを除いた図にしてみる。
(縦軸は「対岸までの距離(m)」、横軸は「島の周囲の長さ(m)」)
こうして見ると、島がより大きい場合、島までの距離も長くなる傾向が少しあるのが分かる。しかし、これは大きい島であれば遠くからでも見ることができるわけだから、当たり前ということになる。
この海の「青島」も、地先の島と言っていい系譜にあるものだ。
また、琉球弧で神々が来訪の際、地先の島にまず寄るのは、そこがかつて「他界の島」だったことを意味すると考えているが、それも本土にも例を見つけることができる。
京都府与謝群伊根町のように、海に面しながら陸地へ深く切れ込んだ湾というのは、古代の海民にとって居を構えるのに絶好の場所であったに違いない。湾は、またとない漁場であると同時に、風波をしのぎやすいからである。そのような立地で、湾口をふさぐ位置に島があれば、それは必ずといってよいほど信仰の対象になっていたし、いまもそうである例が少なくない。島は大風に対する盾になってくれるだけでなく、常世(海のかなた)と現世との境界になる。すなわち、そこから先祖は常世へ旅立ち、神はそこを通って村へやってくると考えていたためである。わたしは、各地の漁村で地先の島を「天然の防波堤だ」と話す住民に何度も出合った(p.87)。
地先の島から常世へ旅立ったかどうかは、伝承などを確かめないと分からない。より正確に言えば、これは、地先の島から海の彼方へと他界が遠隔化したことを示しているのだ。
筒井は、
青島の対岸に古墳がある例は、偶然とは考えにくいくらい多いのである。
古墳は大島を遥拝する場所に築造された可能性が強いといえるのではないか。
としているが、その通りだと思える。この場合、「青島」が他界の島そのものであるか、他界への入口と考えられたか、どちらかだと思える。
筒井は、仲松弥秀や谷川健一と同様、「青が古代日本語で葬送の地を指す言葉であり、その痕跡が青の地名に残っている」と考えている。しかし、それなら青地名と葬地が重ならなければならないが、必ずしもそうはなっていないとして、その理由をたくさん挙げている。
また、色としての青がもともとは、黒と白の中間を指したことから、
これから考えて、原義的にhが何かの色を指す言葉ではなく、「どちらにも属さない、中間の位置または状態」を意味していた可能性が強いように思える。
この推測が当たっているとすれば、アオ(古い表記ではアヲ)とは元来、「あの世とこの世とのあいだ、境、中間」を指していたのではないか。そこはぼんやりと薄暗い、もしくは薄明るい世界だと意識されていたのではないか。その感じが、古代から今日までつづく色彩語としての青に反映しているのかもしれない(p.191)。
筒井はとてもいいところまで詰め寄っている。しかし、色を離れよ、そうすればとてもすっきり解けてくる。筒井さんを存じ上げていれば、そう伝えたいところだ。