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Channel: 与論島クオリア
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「土偶」をつくるということは。

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 土偶をつくるには、自分の身体を、自分の外から見ているイメージを持つことが必要になる。たしかに人間は、動物や人間を見るとき、いまのぼくたちと変わらない視覚像で見ていたには違いないけれど、それと「土偶」をつくる、つくれるということは別のことで、自分の身体を思い浮かべられることを通じて、「土偶」をつくることができるのだと思える。

 「土偶」を作る契機を持っていないということは、身体を外から見るようにイメージする自己を持っていないということを意味する。あるいは、身体と結びつけた自己というイメージを持っていなければならない。身体という基盤のうえに自己があると考えられていなければならないj。モーリス・レーナルトは、「身体を具体的に表象するには」身体に結びつけられた「自我という表象を持たなければならない」と書いている。

 レーナルトはここで面白い例を挙げている。

メラネシアでは、ひとは眠っているあいだに遠い村で盗みをはたらいたという非難を甘んじて受け、身の潔白を証明するアリバイを持ちだしたりせずに罰に服する。

 そのとき彼らは、「睡眠中に分身という不思議なやり方で自分が何をしでかしたか知らない」。寝言ならいざ知らず、遠い村まで出かけt盗みを働いたことを認めざるをえないところに追い込まれるということは、自己は身体に結び付けられては考えられていないことになる。そうなると、自分の身体を外から見るような眼差しは持てない。

 それはつまり、身体を世界から分離していないことを意味している。「彼らは世界から自己を分化しておらず、したがって自分の身体に関して完全な表象を持っていない」。だから、「彼らは、自然のなかに自分を押し広げていくのではなくて、反対に自然によって浸され、それをとおして自らを知るのである」。

 ぼくたちはこれまで、特定の動物に対して似たもの、同じものを見い出し、トーテムとしての関係を結ぶと考えてきたけれど、ことはもう少し繊細に捉えなければいけないようだ。人間が、特定の動物に似たものを見い出すのではなくて、特定の動物のあるようを通じて、そこに似ている、似ていないという面が見出されてくるということだ。

 この点でも、レーナルトは、「メラネシア人の方が樹木を見出すのではなく、樹木の方が彼らに対して姿を現わす」という言い方もしている。ぼくたちは神話の表現からトーテムに該当すると判断する場合、「人間に先立つもの」という指標を用いてきた。まず、穴からアマンが出てきて、次に人間が出てきたという場合、それを時間的な順序のように受け止めている。しかし、ここにはもうひとつ、アマンが人間の前に姿を現わし、それを通じて人間は人間のあり方を知ることになったというのが、より正確なのだろう。

 人間がアマンを見い出すのではない。アマンが人間を見い出し、人間はアマンから自らを教わるのだ。それが、身体が世界と分離していないことの意味だ。

 「貝塚のこころ」とは、サンゴ礁が人間を見つめる。人間は、その視線が身体を透過するあり様から、人間自身を知るところで展開されたのだ。

 だから、カナク人の娘たちが、ココ椰子の油を体に塗って、輝くようにおしゃれをしている若者に対して、「水が、樹液が肌の下に透けて見えた」というとき、それが比喩ではなく、本当にそう思っていることになる。人間は、樹木に照射され、浸透される。そこで、人間は身体に植物(この場合は樹液)を見いだすのだ。

 この外から自分の身体をイメージすることにも段階があることは縄文期の土偶の過程にも示されている。それは、はじめ著しく頭部が軽視されていて、人間らしい形姿を得るまでに単純に計算して約4500年、時間がかかっている。そして、自己の外から見たイメージが希薄な度合いに応じて、そこにはたとえばトーテムとして選ばれた動物の像が浮かび上がってくるのではないだろうか。

◇◆◇

 土偶をつくるには、自分の身体を外から眺めるような表象が必要。それがない、あるいは希薄な段階では、人間の相同物であるような土偶は作られない。

 身体を外から眺める表象がないということは、そこで生きている世界についても、外から眺めるような表象を持っていないことを意味する。だから、それは身体と世界が分離していないことを同時に意味する。

 身体は世界と溶け合っている。考えてみれば、彼らは自己像を明確には持てない。鏡や写真を持たないのだから、他の人間は見れても自分は見れない。池や海に映ったおぼろげな像が自分だと分かるに過ぎない。むしろ、特定の動物をトーテムとして場合は、それが自己像に投影されることになる。

 だから土偶を作る場合であっても、自分の身体の表象を持たない度合いに応じて、誇張や過小な形になったり、「アマン-人間」の表象に近づくような動物的な姿になるのではないだろうか。

 だから、人間が特定の動物に似たところを見いだすのではない。まず、特定の動物が立ち現われる。その動物に身体は照射され、浸透されて、そのなかに動物と共通なものとして身体を見いだすことになる。



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