霊魂や他界を考えるうえで、中沢新一の『神の発明 カイエ・ソバージュ〈4〉』は大きな示唆を与えてくれるようにみえる。そこで提示されたモデルはあまりに鮮やかで戸惑うほどなのだが、原理的な考察であり、琉球弧を典型として取り出しているので、接近しやすい。
ここでは、神の類型として、高神型と来訪神型が提示されている。
一つは「高神 High God」型と呼ばれるものです。この神は「いと高き所」にいる神と考えられています。また階層構造をもった「天」の考え方と結びつくことも多いために「天空神」と呼ばれることもあります。この神について思考するときには。垂直軸が頭に浮かんできます。高神自身が高い「いと高き所」をめざし、そこから降りて来てくれることが求められます。すると、このタイプの神は、山の上や立派な樹木の梢に降下してくれると、考えられているのです。
もう一つのタイプは「来訪神」型とでも呼ぶことができるでしょう。「高神」型の神について思考するときには垂直軸のイメージが必要でしたが、「来訪神」型の神の場合には、海の彼方や地下界にある死者の世界から生者の住む世界を訪れてくるために、水平軸のイメージが必要になります。このタイプの神は、降臨してくるのではなく、遠い旅をしてやってくるという形を取ることが多く、出現の場所も洞窟や森の奥といったほの暗いところに設定されています。
ぼくたちはここですぐに、高神から御嶽を、来訪神からはアカマタ・クロマタ、パーントゥなどを連想することができる。中沢が高神を説明するのに『南西諸島の神観念』の文章を引用するのだが、そこで引きだされているスドゥガミという神女の言葉も、ヨーゼフ・クライナーの整理もとても本質的だと思える。
要約すると、加計呂麻島や与路島のイベは、村の真ん中のミャーにある小高い所で、木が植えてあるか石がおいてあり、そこに神は一年中滞在しているのである。そしてシマ守りの神、シマナオスの神といって、たいていノロかグジが拝んでいる。神が常にここに滞在しているという点は、須子茂部落などの場合は非常にはっきりしている。ここではどんな行事をやる時でも、例えばネリヤの神を迎える時でも、シマ守りの神のまわりに縄をはって、先ずここを拝んでから次に他の神を拝む。武名部落のスドゥガミは、もしも神がこの世から一分でも去れば、この村の生活はとまる、何もできなくなって、例えばこうしてあなたと話すこともできなくなる、と説明してくれた。
つまりここではあの世とこの世の区別というものはない。世は一つ、この村だけであり、これと異なる他界のことは全然考える必要がない。神は常にここにいて下さるのであって、神のいないこの世というものは存在しないのであるから、もはや来訪という考え方はないのである。
中沢が高神と類型化した神は、常に滞在していることから、常在神と呼ばれることもあるものだ。スドゥガミという神女は、この神がいなくなれば、「生活はとまる、何もできなくなって、例えばこうしてあなたと話すこともできなくなる」というように、常在神あるいは高神は、言葉を介した秩序を支える役割を果たしていることが伺える。
もうひとつ重要だと思えるのは、高神においては、「あの世とこの世の区別というものはない」ということだ。この神は世界に内在して、言葉の世界を支えているきわめて抽象化された存在のように見える。
これに対して来訪神の性格は鋭く対照的だ。来訪神は植物の化身のようであったり汚れていたり、そのイメージは豊富である。また、秩序を守るよりは一時的に混沌とした状態を生みだし、共同体を活性化させているように見えることで、高神が均質的な維持を務めるのとは対極的である。そして、高神において「あの世とこの世の区別」は無かったのに対して、来訪神においてはこの世とあの世の区別が重要である。
要するに来訪神の考え方の基礎は、あの世とこの世の厳然たる区別であり、神は時を決めてあの世からこの世を訪問する。これにいわゆる再生の思想が結びついているのであって、神が現れるたびにこの世は再生し、その起源に経ち返って新しくやり直すのである(『南西諸島の神観念』)。
この著しいコントラストを見せる高神と来訪神について、中沢は対照表にしている。
高神型(いと高き、天空/垂直軸の思考/高所からの降下/観念の単純さ、表象性なし/純粋な光)
来訪神型(海上他界、地下冥界/水平軸の思考/遠方からの来訪/豊かな表象性/物質性)
琉球弧を典型として挙げているだけに、この整理は頷きやすいものだ。注意したいのは、これは本質的に言えることであり、さまざまな事例では混交して現れたりすることがあるということだ。実際に、この対照では、他界は海上や地下としているが、高神のいる場を天上他界として表象する事例もあるからだ。しかしもう少し考えると、ここで言われる「この世」と「あの世」とは、現世の漠然として投影として思い浮かべられている後生(グショウ)を指さないのかもしれない。ここで考えられているのは、「この世」の投影に過ぎない、単純である意味では貧相なイメージの「後生」ではなくて、「この世」と著しく隔たった世界をさしていると思える。たとえばそれはこんな風に捉えられている。
スピリットの世界には高次の対称性が実現されていました。「対称性が高い」と言うのは、エネルギーの流動体であるスピリット世界の内部で、スピリットもグレートスピリットも自由な彷徨に運動することができ、自在なメタモルフォーシス(変容、変態)がおこっていくために、固定することができないという状態を示しています。じっさい、多種多様なスピリットたちは、変容を得意とするために、その世界では位置や性質がどんどん入れ替わっていく現象がおこっています。
「位置や性質がどんどん入れ替わっていく」というのは、蛇の姿であったものが人間になったり、石になったりと自在に変幻する状態を指している。この「この世」とは時間も空間の成り立ちも全く異なる世界を指して、「あの世」と呼んでいると思えるのだ。
ところで、『南西諸島の神観念』においてヨーゼフ・クライナーが滞在神(高神)と来訪神について、両者の関係や重要性などに「今のところ何も言うことはできない」としているのに対して、中沢が一歩、考察を進めていると思えるのは、高次の対称性が崩れた時に、高神と来訪神は同時に発生したとしている点だ。
高次の対称性が崩れると、非対称性の原理を示す高神と低次になりながら対称性の原理を保つ来訪神が現れる。そしてそこには「残余のスピリット」も現れる。「残余のスピリット」とは、キジムナーやケンムンなどのムヌ(精霊、妖怪)を指していると考えれば、これも理解しやすい。こうして、高神と来訪神、残余のスピリットからなる多神教の宇宙が出現したというわけだ。
このような多神教的な神々の宇宙の基本構造を、日本の南西諸島(奄美や沖縄にある島々のこと)ほどくっきり鮮やかに示している地帯も少ないのではないでしょうか。そこでは高神もいれば来訪神も出現するし、樹木に住む小さなスピリットたちもいればといった具合で、スピリット世界が「対称性の自発的破れ」をおこしてそこから多神教宇宙があらわれでてきたのが、まるでつい昨日のことであったかのような、ういういしい様子で、今も私たちを迎えてくれるのです(『神の発明 カイエ・ソバージュ〈4〉』)。
中沢の仮説が魅力的だと思えるのは、起源の姿を設定したうえで多神教宇宙の発生が考えられているからだ。ここでぼくたちは高神と来訪神というモデルを手にするのだが、もうひとつ、他界の発生以前にも手を届かせられる場所に来ているのかもしれない。中沢の言う高次の対称性の世界は、生と死がつらなり、連続している世界だ。その世界のなかにあったということが、無他界、他界を発生させる以前の世界だったのではないだろうか。言い換えれば、高次の対称性の世界を見ることができなくなった、その事を人間は他界として思考したのではないだろうか。ここまで来ると、来訪神が、つながりを無くしてしまってこの世とあの世をつなぎ直すために来訪するのであるという性格がよく理解できるとともに、来訪神とは人間が他界という観念を発生させた衝撃が生み出したという理解に導かれる。