アカマタ・クロマタ祭儀の背後には、祭儀の過程と並行するように男子結社への入社儀礼が行われていた(cf.「入団式のタイミング」)。農耕祭儀と来訪神と成人儀礼と。これらはどのように絡み合ってきたのだろうか。
ここで南太平洋に目を転じると、エリアーデの挙げる四つの要素が絡み合った事例が飛び込んでくる。それは衝撃を伴わずには受け止められないが、ここは勇気を出してダイブしみてよう。
ニューギニア島南部のマリンド・アニム族のマヨ祭儀では、成人儀礼に選ばれた若者(ここには少女も含まれる)は、衣裳を脱ぎ身体を白く塗られ、全身をココ椰子の葉ですっぽり覆ってしまう。彼らは生れたばかりで、「衣服、飾り、結髪、漁、狩り、性行為」等にういても何も知らない状態だと見なされる。そして、それらが発生したり発明されたりした神話を教えられるのだが、この時、結社員たちは仮装の姿で現れ、神話を演じるのだ。神話はただ語られるのではない。神話の登場人物たちによって演じられ再現されるのである。
ここで察しがつくように、ぼくたちが来訪神と呼んでいるものは、マヨ祭儀では若者たちの成人儀礼のなかで神話が再現される際に立ち現れているのだ。若者たちにとっては、これは神話が現前しているような体験だったのではないだろうか。しかもこの生活は五ヶ月間も続けられる。そして、マヨ祭儀のクライマックスでは、マヨの娘(あるいはマヨの母)と呼ばれる少女が、結社員に強姦され、殺害され、食べられてしまうのである(cf.「イェンゼンの「殺された女神」」)。
実は、マヨ祭儀のなかで若者たちが神話を体験し、それに応じて食物や衣服を与えられていったように、この少女の殺害も神話を再現したものだと考えられている。それは、人間から植物が生れたとされるハイヌウェレ型の神話として知られるものだ。
神話の類型名になっているハイヌウェレは、インドネシアのモルッカ諸島にあるセラム島のウェマーレ族のものだ。その内容はおおよそ次の通りである。
アメタ(黒い、暗い、夜などの意味)と呼ばれる男がいた。アメタは狩の最中にココ椰子の実を見つける。その夜、夢のなかで一人の男に、「ココ椰子の実を、地中に植えなさい。もう、芽が出かかっているから言われ、ココ椰子の実を植えると、三日後には高い樹に育ち、さらに三日後には花が咲いた。アメタは花から飲み物を作ろうとするが、手元を狂わせて指を怪我してしまい、傷から流れた血が花にかかった。
それから三日後には、花と血が混じり合ったところから人間が生じかけていて、顔ができていた。その三日後には胴体が、さらに三日後には完全な女の子になっていた。その夜、再びが男が夢に現れて、女の子を家に連れて帰りなさいと言われる。アメタは、娘に「ココ椰子の実」という意味のハイヌウェレという名前をつける。ハイヌウェレは急速に成長し、三日後には大人になった。彼女は、陶器の皿や銅鑼などのような宝物を大便で排泄したので、アメタはたちまち裕福になった。
そのうちに九夜続けるのが習わしのマロ踊りが開かれた。ハイヌウェレは毎夜、踊りのなかで、みんなに宝物を与え続けたが、夜ごとに宝物は高価になり、人々ははじめのうち喜んだもののやがて妬ましくなり、九夜目にハイヌウェレを殺してしまう。アメタはハイヌウェレが殺されたのを知り、埋められた彼女を掘り出し、死体を多くの断片に切り刻んで、その一つ一つを別々に広場のまわりに埋めた。すると、そこにさまざまな種類の芋が発生して、以後、人間は、これらの芋を主植物として生きることができるようになった。
「ココ椰子の実」という意味を持つハイヌウェレは、排泄物から人間にとって有用なものを生み出す力を妬まれて殺害されるが、その場所からはウェマーレ族にとって重要なたくさんの種類の芋が生まれ、人間が生きられるようになったというものだ。
マリンド・アニム族も同系の神話を持っており、現に殺害された少女は、新しく植えられたココ椰子の側に埋められ、椰子の幹は彼女の血が塗られたという。マヨ祭儀はそのクライマックスまで神話の再現なのだ。
ハイヌウェレ型の神話をぼくたちは『古事記』のなかで知っている。スサノオが穀神であるオオゲツ姫に食べ物を求めると、鼻や口や尻から様々な食べ物を出して料理する。スサノオは穢いことをすると嫌悪して、殺害してしまう。すると、殺されたオオゲツ姫の頭に蚕、目に稲種、耳に粟、鼻に小豆、陰部に麦、尻に大豆ができたというものだ。蚕といわゆる五穀で、『古事記』の説話も当時の人間に有用な作物が生れたという意味を充分に持っている。
マヨ祭儀から受ける衝撃は、死体から化生するハイヌウェレ神話が実際に、その通りに行われていたということにあるだろう。神話はかつてただの作り話ではなくて信じられていたということが、これ以上にない現実感として突きつけられるからだ。そしてもうひとつ、南太平洋に豊富にあり、『古事記』にも残されたハイヌウェレ神話が、南太平洋では祭儀の核に位置したものだというなら、そしてそれは成人儀礼を組みこんだ農耕祭儀のなかで行われ、かつぼくたちが来訪神と呼ぶものが登場するとしたら、かつて琉球弧においてもそうであったのではないかと考えさせるからだ。
琉球弧においてはハイヌウェレ型と同系と思わせるのは、煙草の起源(喜界島)として語られている。
一人娘を失った母が墓の前で亡き暮らしていると、ある日、娘のは蚊の上に見た事もない一本の草が生え、見る見る伸びて大きい葉を沢山出した。その葉を持って帰って、煮たり茹でたりしてみたが、苦くて食べられない。そのうちに葉が枯れてしまったので、それを竹の管につめて火を点けて吸ってみると、何ともいえない良い味で、どんな哀しいことにも気慰めになる。それが段々流行って誰も彼も吸うようになった。(柳田國男編・岩倉一郎採録『喜界島昔話集』)
琉球弧に煙草が伝わったのは十七世紀前後と考えられているので、この昔話は相当に新しいことが分かるが、長く文字を持たなかった琉球弧の島人が、煙草の伝来に合わせて、人間にとって有用な物として煙草に置きかえたのかもしれない。特に、母と娘というプロットは、死体化生との親近性を感じさせるものだ。
気を取り直して、女性がなぜ殺害されるのかを考えてみよう。殺害される女性が、対幻想の対象ではなく、共同利害の象徴である穀物という共同幻想の表象であることは分かる。この初期の農耕社会にとっては女性だけが子を分娩することが重視されたとして吉本隆明は書いている。
『古事記』の説話のなかで殺害される「大気都姫」も、「箒の祭」(穀母の正装をつけて女性が殺害される古代メキシコのトウモロコシ儀礼-引用者注)の行事で殺害される穀母もけっして対幻想の性的な象徴ではなく、共同幻想の表象である。これらの女性は共同幻想として対幻想に固有な〈性〉的な象徴を演じる矛盾をおかさなければならない。これはいわば、絶対的な矛盾だから、じぶんが殺害されることでしか演じられない役割である。じぶんが殺害されることで共同幻想の地上的な表象である穀物として再生するのである。(『共同幻想論』)
農耕を知ったことは大きな衝撃であったに違いない。それまで大地の恵みとしてあったものに、人間が関与し、その実を採って撒いたり植えたりすることによって栽培が可能になる。しかも、人間にとってより有用な食べ物は大地の恵みとしてあった以上に増殖させることができる。人間と植物との区別をまだ大きく設けていなかった段階では、それは何よりも女性が子を産むこととのあいだに似たものを感じ取ったのだ。
マヨ祭儀において、参加者が、生れたばかりで何も知らない状態とされた時、身体を白く塗られココヤシの葉で全身を覆ったのは、人間と植物とが同一視されたということだ。しかもハイヌウェレと名づけられた娘がココヤシの鼻と人間の血とから生れたように、植物から人間も生まれるし、殺害された女性を埋めた場所から有用な作物が育つように、人間からも植物が生れる。マヨ祭儀において少女は殺害されるが、それはその時、最も有用だと考えられた穀物として再生するためだったのだ。