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農耕祭儀としての来訪神儀礼の遡行

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 アカマタ・クロマタ祭儀の背後には、祭儀の過程と並行するように男子結社への入社儀礼が行われていた(cf.「入団式のタイミング」)。農耕祭儀と来訪神と成人儀礼と。これらはどのように絡み合ってきたのだろうか。

 ここで南太平洋に目を転じると、エリアーデの挙げる四つの要素が絡み合った事例が飛び込んでくる。それは衝撃を伴わずには受け止められないが、ここは勇気を出してダイブしみてよう。

 ニューギニア島南部のマリンド・アニム族のマヨ祭儀では、成人儀礼に選ばれた若者(ここには少女も含まれる)は、衣裳を脱ぎ身体を白く塗られ、全身をココ椰子の葉ですっぽり覆ってしまう。彼らは生れたばかりで、「衣服、飾り、結髪、漁、狩り、性行為」等にういても何も知らない状態だと見なされる。そして、それらが発生したり発明されたりした神話を教えられるのだが、この時、結社員たちは仮装の姿で現れ、神話を演じるのだ。神話はただ語られるのではない。神話の登場人物たちによって演じられ再現されるのである。

 ここで察しがつくように、ぼくたちが来訪神と呼んでいるものは、マヨ祭儀では若者たちの成人儀礼のなかで神話が再現される際に立ち現れているのだ。若者たちにとっては、これは神話が現前しているような体験だったのではないだろうか。しかもこの生活は五ヶ月間も続けられる。そして、マヨ祭儀のクライマックスでは、マヨの娘(あるいはマヨの母)と呼ばれる少女が、結社員に強姦され、殺害され、食べられてしまうのである(cf.「イェンゼンの「殺された女神」」)。

 実は、マヨ祭儀のなかで若者たちが神話を体験し、それに応じて食物や衣服を与えられていったように、この少女の殺害も神話を再現したものだと考えられている。それは、人間から植物が生れたとされるハイヌウェレ型の神話として知られるものだ。

 神話の類型名になっているハイヌウェレは、インドネシアのモルッカ諸島にあるセラム島のウェマーレ族のものだ。その内容はおおよそ次の通りである。

 アメタ(黒い、暗い、夜などの意味)と呼ばれる男がいた。アメタは狩の最中にココ椰子の実を見つける。その夜、夢のなかで一人の男に、「ココ椰子の実を、地中に植えなさい。もう、芽が出かかっているから言われ、ココ椰子の実を植えると、三日後には高い樹に育ち、さらに三日後には花が咲いた。アメタは花から飲み物を作ろうとするが、手元を狂わせて指を怪我してしまい、傷から流れた血が花にかかった。

 それから三日後には、花と血が混じり合ったところから人間が生じかけていて、顔ができていた。その三日後には胴体が、さらに三日後には完全な女の子になっていた。その夜、再びが男が夢に現れて、女の子を家に連れて帰りなさいと言われる。アメタは、娘に「ココ椰子の実」という意味のハイヌウェレという名前をつける。ハイヌウェレは急速に成長し、三日後には大人になった。彼女は、陶器の皿や銅鑼などのような宝物を大便で排泄したので、アメタはたちまち裕福になった。

 そのうちに九夜続けるのが習わしのマロ踊りが開かれた。ハイヌウェレは毎夜、踊りのなかで、みんなに宝物を与え続けたが、夜ごとに宝物は高価になり、人々ははじめのうち喜んだもののやがて妬ましくなり、九夜目にハイヌウェレを殺してしまう。アメタはハイヌウェレが殺されたのを知り、埋められた彼女を掘り出し、死体を多くの断片に切り刻んで、その一つ一つを別々に広場のまわりに埋めた。すると、そこにさまざまな種類の芋が発生して、以後、人間は、これらの芋を主植物として生きることができるようになった。

 「ココ椰子の実」という意味を持つハイヌウェレは、排泄物から人間にとって有用なものを生み出す力を妬まれて殺害されるが、その場所からはウェマーレ族にとって重要なたくさんの種類の芋が生まれ、人間が生きられるようになったというものだ。

 マリンド・アニム族も同系の神話を持っており、現に殺害された少女は、新しく植えられたココ椰子の側に埋められ、椰子の幹は彼女の血が塗られたという。マヨ祭儀はそのクライマックスまで神話の再現なのだ。

 ハイヌウェレ型の神話をぼくたちは『古事記』のなかで知っている。スサノオが穀神であるオオゲツ姫に食べ物を求めると、鼻や口や尻から様々な食べ物を出して料理する。スサノオは穢いことをすると嫌悪して、殺害してしまう。すると、殺されたオオゲツ姫の頭に蚕、目に稲種、耳に粟、鼻に小豆、陰部に麦、尻に大豆ができたというものだ。蚕といわゆる五穀で、『古事記』の説話も当時の人間に有用な作物が生れたという意味を充分に持っている。

 マヨ祭儀から受ける衝撃は、死体から化生するハイヌウェレ神話が実際に、その通りに行われていたということにあるだろう。神話はかつてただの作り話ではなくて信じられていたということが、これ以上にない現実感として突きつけられるからだ。そしてもうひとつ、南太平洋に豊富にあり、『古事記』にも残されたハイヌウェレ神話が、南太平洋では祭儀の核に位置したものだというなら、そしてそれは成人儀礼を組みこんだ農耕祭儀のなかで行われ、かつぼくたちが来訪神と呼ぶものが登場するとしたら、かつて琉球弧においてもそうであったのではないかと考えさせるからだ。

 琉球弧においてはハイヌウェレ型と同系と思わせるのは、煙草の起源(喜界島)として語られている。

 一人娘を失った母が墓の前で亡き暮らしていると、ある日、娘のは蚊の上に見た事もない一本の草が生え、見る見る伸びて大きい葉を沢山出した。その葉を持って帰って、煮たり茹でたりしてみたが、苦くて食べられない。そのうちに葉が枯れてしまったので、それを竹の管につめて火を点けて吸ってみると、何ともいえない良い味で、どんな哀しいことにも気慰めになる。それが段々流行って誰も彼も吸うようになった。(柳田國男編・岩倉一郎採録『喜界島昔話集』)

 琉球弧に煙草が伝わったのは十七世紀前後と考えられているので、この昔話は相当に新しいことが分かるが、長く文字を持たなかった琉球弧の島人が、煙草の伝来に合わせて、人間にとって有用な物として煙草に置きかえたのかもしれない。特に、母と娘というプロットは、死体化生との親近性を感じさせるものだ。

 気を取り直して、女性がなぜ殺害されるのかを考えてみよう。殺害される女性が、対幻想の対象ではなく、共同利害の象徴である穀物という共同幻想の表象であることは分かる。この初期の農耕社会にとっては女性だけが子を分娩することが重視されたとして吉本隆明は書いている。

 『古事記』の説話のなかで殺害される「大気都姫」も、「箒の祭」(穀母の正装をつけて女性が殺害される古代メキシコのトウモロコシ儀礼-引用者注)の行事で殺害される穀母もけっして対幻想の性的な象徴ではなく、共同幻想の表象である。これらの女性は共同幻想として対幻想に固有な〈性〉的な象徴を演じる矛盾をおかさなければならない。これはいわば、絶対的な矛盾だから、じぶんが殺害されることでしか演じられない役割である。じぶんが殺害されることで共同幻想の地上的な表象である穀物として再生するのである。(『共同幻想論』

 農耕を知ったことは大きな衝撃であったに違いない。それまで大地の恵みとしてあったものに、人間が関与し、その実を採って撒いたり植えたりすることによって栽培が可能になる。しかも、人間にとってより有用な食べ物は大地の恵みとしてあった以上に増殖させることができる。人間と植物との区別をまだ大きく設けていなかった段階では、それは何よりも女性が子を産むこととのあいだに似たものを感じ取ったのだ。

 マヨ祭儀において、参加者が、生れたばかりで何も知らない状態とされた時、身体を白く塗られココヤシの葉で全身を覆ったのは、人間と植物とが同一視されたということだ。しかもハイヌウェレと名づけられた娘がココヤシの鼻と人間の血とから生れたように、植物から人間も生まれるし、殺害された女性を埋めた場所から有用な作物が育つように、人間からも植物が生れる。マヨ祭儀において少女は殺害されるが、それはその時、最も有用だと考えられた穀物として再生するためだったのだ。

 


ドゥクドゥク祭儀の過程

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 岡正雄の『異人その他―他十二篇』では、あいまいなところのあるドゥクドゥクの祭儀の過程について、パーキンソンの『Thirty Years in the South Seas』を参照してみる。

1.秘密の場所であるタライウから大きな叫び声が聞こえたら、それがトゥブアン出現の合い図になって、通過儀礼を受ける少年たちは連れて行かれる。

2.トゥブアンが叫び声をあげ、寝かされた少年たちを打つのを皮切りに、結社員たちが少年たちを打ちのめす。

3.トゥブアンが仮面であること、ドゥドゥクの踊り方を教えられる。その際、タライウで起こったこと、教えられたことを口外しないことを約束させられる。破れば酷刑に処されると脅される。

4.夜を通して、ドゥドゥクが誕生する。

5.明け方、新しく生れたドゥクドゥクを従えてトゥブアンが、カヌーに乗って公衆の前に現れる。カヌーが浜辺に着くと、歌い、踊る。

6.饗宴の場に行き、女性や子供たちの前で踊る。ドゥクドゥクの力や厳しいルールを伝える。新生のドゥクドゥクに貝貨が与えられる。

7.次の日から家々をまわり、ドゥドゥクは貝貨を集め始める。

8.一ケ月から二ヶ月かけて、貝貨を集め終えると、トゥブアンは祭りの終わりを告げる。

9.タライウにてドゥドゥクは死ぬが、トゥブアンは不死とされている。


『Thirty Years in the South Seas: Land and People, Customs and Traditions in the Bismarck Archipelago and on the German Solomon Islands』

『異人その他―他十二篇』

来訪神ボジェの段階

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 殺害された女性から穀物が生れたという神話が、神話にとどまらず祭儀のなかでも行われたことを知ると、気になることが出てくる。それは、殺害されるのは選ばれた女性であるとして、それなら殺害するのは誰かということだ。マヨ祭儀ではそれは結社員である男性たちだった。この男性の論理とはどのようなものか。

 そういう視点でみると、男性には選ばれたマヨの母(娘)を殺害するというだけではない特異な強調がなされているのに気づく。たとえば、新入の結社員たちが通過儀礼の際にその起源の神話とともに与えられるバナナやココ椰子には必ず精液が塗りこまれていた。それでなければ、たちまち病気になり、以後その食べ物を食べられなくなるからというのだ。精液に対する特別な信仰はそれに留まらない。マヨの母(娘)は殺害される前に結社員たちによって強姦されていた。彼らにとっては大量の精液を流し込むことが重視されていたのだ。

 しかもこれはマヨ祭儀のなかの特別な行為ではない。結婚に当っても、新婦である女性は健康と多産のために夫と同家系の男性たちの性交の相手をしなければならず、それは子供を産んだ後も、新しい子供の誕生のために繰り返されたのだという。ここには、性交から子供が生まれるという概念からははみ出した過剰な意味が込められていると思える。

 ニューギニア島南部のサムビア族では、通過儀礼の過程で少年たちは口唇性交により大人の精液を飲むことを強いられる。また、母乳も精液の変化したものに他ならず、胎児の身体も精液によって形成され成長するので、夫は妻の妊娠後も、妻の胎内に精液を共有し続けなければならなかった。これを報告したHerdt は、人間は精液がそのなかを通って次の世代に伝達される一時的な容れ物に過ぎず、精液こそが主体であると、この「精液原理」を説明している。これは、昨今の科学が、人間は遺伝子の乗り物に過ぎないと見なすのと似ている。思考の型としてはほとんど両者は変わらないのではないだろうか。

 選ばれた女性が穀物として再生を果たすものであるとすれば、殺害する男性とは、再生による穀物の増殖を担う者だったということになる。また、ハイヌウェレ神話というのは、殺害された女性が穀物として再生することが強調されるが、ここには精液原理とも言うべき信仰による殺害する男性の論理も加えなければ半面しか見てないことになると思える。この意味では、この段階の男子結社とは精液原理を共同幻想化したものだった。

 この精液原理のもとでは、男根が崇拝の対象になっている。ここまで来ると思いだされるのは、琉球弧の北の境あたりに位置するトカラ列島の来訪神、ボジェの持つ棒の意味に接続する。来訪神ボジェの持つ棒は、1メートル余りの長さで、端を丸めて亀頭状にしてあり、ボジェマラ棒と言われるように男性器そのものを指している。そして祭儀においては、このボジェマラに突かれると運がいいとか、女は良縁に恵まれると言われているのだ。

 言い換えれば、来訪神ボジェは、ハイヌウェレ神話の段階まで遡れる可能性があるということだ。

 

マヨ、ドゥク・ドゥク、アカマタ・クロマタ

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 吉本隆明は、穀物と女性だけが子を分娩するという同一視から、女性が殺害されることによって穀物を再生するという観念が、別の観念に取って代わられる段階を想定している。それ、穀物の生成や枯死や種播きという時間の流れが、女性が子を妊娠し、夫の協力も得たうえで子を成人させるという時間の流れとちがうことを意識した時だ。

 このように穀物の栽培と収穫の時間性と、女性が子を妊娠し、分娩し、男性の分担も加えて育て、成人させるという時間性がちがうのを意識したとき、人間は部族の共同幻想と男女の〈対〉幻想とのちがいを意識し、またこの差異を獲得していったのである。もうこういう段階では〈対〉幻想の時間性は子を産む女性に根源があるとはみなされず、男・女の〈対幻想〉そのものの上に分布するとかんがえられていった。つまり〈性〉そのものが時間性の根源になった。  もちろんこの段階でも、穀物を、男・女の〈性〉的な行為とむすびつける観念は消えたはずがない。だがすでにこのふたつのあいだには時間性の相違が自覚されたために共同幻想と〈対〉幻想とを同一視する観念は矛盾にさらされた。それを人間は農耕祭儀として疎外するほかに矛盾を解消する方途はなくなったのである。(『共同幻想論』

 来訪神を追っているここでの文脈からいえば、女神としてのクロマタと男神としてのクロマタという男女二神は、この段階にあるものだ。ところでぼくたちは、マヨ祭儀に例をとったハイヌウェレ型神話の再現である祭儀と、男女二神による祭儀とのあいだにもうひとつの段階を想定してみたい。

 ニューギニアのトーライ族が行ってドゥク・ドゥクの祭儀では、ドゥク・ドゥクの母親であるとされるトゥブアンが男子結社の集会地に出現したことが分かると、十二才を目安にした少年たちは集会地に連れて行かれる。そこで仮面仮装したトゥブアンの合い図をもとに少年たちは棒で叩きのめされてしまう。そして、ドゥクドゥクの踊り方などを含めた秘密を教えられ、集会地で起きたことを含め口外しないことを約束させられる。その夜を通して、新しいドゥクドゥク誕生の儀礼が行われる。ここでは少年たちがドゥク・ドゥクとして仮面仮装することになるのだ。翌明け方にトゥブアンは、新生のドゥクドゥクを率いてカヌーに乗り会場から村落の浜辺に出現する。そして村落の広場で、村落の住民たちを前に踊り、示威する。

 トゥブアンは、首長のいないトーライ族にあって掟の違反に罰則を与える力を持ち、また出現の後にドゥク・ドゥクによって村落民から強制的に貝貨を集めるなど、財の再配分に関与するなどをし、明瞭な農耕祭儀としてはみえてこない。しかし、最初の収穫物が供えられるとされ、冬至という太陽の力が弱まるときに始まるので、後景に退き、見えにくくなっているとはいえ、これが収穫と予祝をめぐる農耕祭儀の意味を持っていることは確からしく思える。やがて貝貨が集められると、祭儀は終わり、ドゥク・ドゥクは死に、トゥブアンも消えるが、トゥブアンは不死とされている。

 ドゥク・ドゥクの祭儀では、トゥブアンは女性や子供に非常に恐れられているが、もう女性は殺害されることはない。代わって、女性して母親であるトゥブアンとその子にして毎年死ぬドゥク・ドゥクが登場するのである。この段階では、すでに人間の成育と穀物と生成と枯れ死の時間の流れの違いが意識されていた。その違いによって対幻想と共同幻想を同一視する観念の矛盾を、穀物神として、母であるトゥブアンと子であるドゥク・ドゥクに疎外したのだ。この二重性は、穀母と毎年の生成と枯れ死をそれぞれ担っているが、それはマヨ祭儀において、殺害される女性がマヨの娘ともマヨの母とも言われた両義性に対応している。

 また、この疎外によって、マヨ祭儀は男子結社の内部で行われていたのに対し、ドゥク・ドゥクの祭儀は村落全体の共同祭儀になったと考えられる。女性が殺害されることがなくなったから祭儀が公開されたのではない。そういう面もあるかもしれないが、本質的には、人間の成育と穀物の生成に流れる時間性の違いは共同幻想全体に関わるから公開されたのだ。ある意味で、この時点から、男子結社の持つ秘密性の減少は始まるのかもしれない。

 そして、マヨ祭儀のなかでは、結社内で神話を演じていた仮面仮装の神々は、海のかなたからやってくる来訪神の姿を明確にさせている。ここで、神の系列に男性が加われば、アカマタ・クロマタになるのだ。この男・女二神になるには、性交による子の妊娠という認識が重要な契機になったに違いない。

 女性の殺害による穀物の増殖という観念と男女二神の間に、穀母神と子供の神の段階を置くと、アカマタ・クロマタにもひとつの視点が得られる。それは、アカマタ、クロマタも子神を伴って現れるからだ。西表島の古見では、旧士族の共同体は親であるクロマタを担い、旧平民の共同体は子であるアカマタ、シロマタを担うなど、現存する形は大きな編成を受けているが、祖形に向かって遡行した時、そこには女神と子神が残ることを想定することができると思える。



来訪神と人間としての再生信仰

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 分たれたこの世とあの世を時を定めてつなぎ直すために来訪神が出現するとしたら、それは再生信仰とどのような関係にあるだろうか。

 秘密結社のなかの成人儀礼において、仮面仮装で神話を演じるマリンド・アニム族は、死霊は昼は鴉の形をとるとされるが、より一般的には「死んで動植物に転生するという信仰が広く行われている」(p.311『他界観念の原始形態―オセアニアを中心として』棚瀬襄爾)。これはマヨの祭儀において、マヨの母(娘)を穀物の再生を託して殺害するのだから、当然だ。

 タミ族については、仮面仮装の儀礼がどんな内容かをぼくは知らないが、死後は来世を送った後、蟻や蛆になるという転生信仰を持っている。

 不死のトゥブアンと毎年死ぬドゥクドゥクの仮面仮装儀礼を行うニューブリテン島では、現世と酷似する来世の信仰がある。死後、霊魂は各種の「動物に入りうる」(p.164)としている。

 来世で過ごした後、同じ母系の誰かとなって再生するという明確な信仰を持つトロブリアンド島では、仮面仮装の来訪神は観察されていない。ただ、収穫祭のミラマラにおいて祖霊の来訪は意識されている。

 そもそもマヨ祭儀において、少女が穀母として殺害されるのは、植物としての再生信仰がなければ行えない。来訪神の共同祭儀化が明確なトゥブアンとドゥクドゥクを行うニューブリテン島では、すでに植物への転生信仰はなくなっている。植物の生育と人間の成育の時間的な流れのちがいを意識化するということは、植物と人間の違いを意識化することでもある。そこで植物への転生信仰は断たれる。

 ところで人間としての再生信仰を持つトロブリアンド島では、仮面仮装の来訪神は現れていない。不可視の祖霊がやってくるのみだ。人間としての再生信仰にいたるには、人間と植物、動物との違いが明瞭に意識され、他の存在から区別されている。ということは、スピリットたちの世界からも遠ざかるから、表象する術を無くしているのではないだろうか。人間としての再生信仰の強化は、来訪神の不可視化と相関を持つのかもしれない。あるいは、来訪神を祖霊的なものとしてしか表象できなくなるということかもしれない。


来訪神の段階

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 現在の新城島でのアカマタ・クロマタは、粟の豊年祭においては子神のみが出現し、稲の豊年祭において親神と子神が出現するという形態を持つことにも、この祭儀の編成が示されている。自然に考えれば、粟の豊年祭が先行してあったところに、稲の豊年祭が加わり、それが本格化していったということだ。

 これらはいずれにしても農耕祭儀の域を出ないということは言える。もうひとつ考えられることがあるのは、子神のアカマタ・クロマタがフサマロという別称を持つことである。別称とは古称のことかもしれない。そういう連想を促すのは、波照間島でフサマロと呼ばれる来訪神がかつて存在したことだ。波照間島のアミニゲエ(雨乞い)の儀礼は、女性の祭祀集団が行うが、旱魃が酷い時には、それだけではなく、スーニゲエ(総願い)というもうひとつの雨乞い儀礼が行われた。これは、「総願い」という名称が示唆するように女性の祭祀集団だけではなく、男性の祭祀集団も加わって行われる。ところが島人によれば、かつてはスーニゲエは男性の祭祀集団によるフサマラの儀礼が行われていたのだと言う。こうした経緯のなかにも、祭儀の変遷が顔を覗かせるのだが、フサマラは雨乞いの来訪神儀礼だったのだ。通常の雨乞いだけではなく、総出の雨乞いも加えられたところに、水に対する島の渇望感が色濃く現れるが、それだけではなく、ここで注目したいのは、波照間島のフサマラも男女二神で現れるので、すでに農耕祭儀としての顔つきをしているが、雨乞いは農耕儀礼にとって重要だが、農耕社会ではなくてもそれ以前にも重要な儀礼であるということだ。新城島のアカマタ・クロマタがフサマラという別称を持ち、かつて波照間島にはフサマラという雨乞いに出現する来訪神のあったことは、祭儀の持っている時間の深度が伸びる可能性を示すのかもしれない。

 来訪神は、地の底あるいは海の彼方から、はかりしれない遠いところからやってくると考えられている。そして、分たれてしまったこの世とあの世のつながりをつなぎ合わせるためにやってくる。あの世となってしまった世界とは、スピリットが男女にも動物にも植物にも自在に変幻する高次の対称性の世界、世(ゆ)であり、そことの自在な行き来ができなくなって、来訪神は出現の根拠を持ったと、ぼくたちは仮定してきた。そこから、みれば祭儀の段階の他に、高次の対称性の世界、世(ゆ)の表象性の視点からも来訪神をみつめることができる。

 折口信夫は、「訪客なる他界の生類との間に、非常な相違があり、その違ひ方が、既に人間的になっているか、其以前の姿であるかを比べて考えると、どちらが古く、又どちらが前日本的、或は更に前古代的かと言ふ判断がつくことと思ふ」(「民族史観における他界観念」)と書いたが、この尺度は有効だと思える。

 秘祭であるがゆえに、記述と数少ない写真からしか追うことはできないが、たとえば西表島のアカマタ・クロマタ祭儀を見聞した民俗学者はこう記している。

黒マタは全身オオタニワタリの葉でおおい、頭に赤いサンダンカの花をかざしにし、黒い木彫りの面にパク(矛)を杖にする。赤面の赤マタと白面の白マタは、シツカザ(西表三味線カズラ)に身をつつみ、体をふるわすと、細い草の先端が微妙に揺れ動いて、宙に浮かんでいるように錯覚されるから妙だ。(湧上元雄「西表島古見むらのプール」)

 この民俗学者は、出現の時にも、「その瞬間、全身シツカザにおおわれた白面のフサマラー(草をまとったまれびと?)が身をふるわすと、微妙に全身揺れ動いて、彷彿としてきたりうける霊のいますかと錯覚されるから妙だ」とも書くのだが、研究のためで祭儀の世界観のなかにいる島人でない者にとっても、植物の化身のようなアカマタ・クロマタは、世(ゆ)の表象性を豊かに持っている。祭儀の終わりで、アカマタ・クロマタとの別離の際に、人が演じていることは分かっていても、村落の古老が涙を流すのには、死者や祖霊を伴った来訪神が、始原的な世(ゆ)とのつながりをもたらしたことへの喜悦が含まれているのだ思える。

 また、赤土の赤と墨の黒のコントラストが鮮明で、突きでた目、鼻、そして羽を持つ上体と、ビロー葉で覆った下半身のいでたちであるトカラ列島のボジェは、巨大な昆虫のようにも樹木と植物の怪物のようにも見え、これも世(ゆ)の表象性が豊かだ。

 こうした精霊(スピリット)の世界を生き生きと表象できなくなった段階では、来訪神は、人間的なものとして表象され、祖霊に近づいてゆく。デイゴの木ででき、能面を彷彿とさせる翁、姥といった老人の仮面で現れる石垣島のアンガマや、蓑を後ろ前につけるという石垣島川平のマユンガナシは、折口信夫がまれびとの典型のように挙げた蓑笠姿そのものに近いように見える。ただ、マユンガナシの名は、美称の接頭辞の「ま」と世(ゆ)、尊称の「かなし」を合わせたものであり、来訪神の別名といっていいほど正統な名を持つものだ。

 「他界の生類」と人間的なものの中間に位置するのは、宮古島のパーントゥだ。パーントゥの仮面は人面を思わせるが、つる草で全身が覆われた、植物と人間の化身の姿だ。そして何といっても、産水としても使われたンマリンガーと呼ばれる井戸の水底の泥を全身に塗っているところに、世(ゆ)の大地を充分に汲み取っていることが示されている。

 他界の生類であれ人間的なものであれ、仮面仮装して出現するのが来訪神だが、琉球弧では仮面仮装がほどけた来訪神も存在している。そして、仮面仮装が解けることで質的な転換も起こっていると思われる。吉成直樹が『マレビトの文化史―琉球列島文化多元構成論』において詳細に検討している例からいえば、沖縄島北部や周辺の島で行われているウンジャミは、海上はるか遠くのニライカナイから海神を迎え、遊ビビラムトがその神に憑依することで来訪神を演じる。与路島のウムケー、オーホリにおいてはテルコ神がやはり迎えた神に憑依して祭儀を行う。

 また、宮古島のウヤガンにおいては、さらに重層し、木の葉の冠をかぶり、木の枝を持った白衣裳のシバノウヤガンが海の彼方から神を迎えて憑依する一方、別の神女であるウプツカサは御嶽の神と一体化し山から出現する。この二重性は、吉成が考察しているように、海の彼方からの神に憑依する来訪神儀礼に対して、御嶽の神と一体化する儀礼が重なってものだと考えがえられる。御嶽は、高神が常在する場所だというだけでなく、来訪神迎える場にもなり賑やかになった。この過程は、琉球弧の母系社会の進展と琉球王朝による神女組織の体制化により、男子結社による仮面仮装の来訪神祭儀が、細り、あるいは包囲されていく過程でもあっただろう。

 吉成は、男子結社による仮面仮装の来訪神と、ニライカナイの神に憑依する来訪神、御嶽の神と一体化する来訪神を歴史的な順序から考察しているが、仮面仮装という変身による来訪神化と、憑依、一体化は段階としてもこの順であると言える。それは、高次対称性の世界、世(ゆ)からの距離感に対応している。

 琉球弧の来訪神について、もうひとつ加えるべきことがあるとすれば、他界の生類の表象性という以外に、具体的な人や集団があるということだ。それは折口信夫が、他郷からの来訪者であるストレンジャーを「まれびと」としたいちばん初めの着想に対応するものだ。ただ、琉球弧の場合、それは「ほごひびと」として現れるというより、技術や信仰をもたらした者たちに仮託されているように見える。

 比嘉政夫は、マユンガナシのカンフツ(呪言)は、作物の植え付けの時期などの農耕技術が含まるとして、「八重山石垣島の北の端から順に近い川平に至る地名の列挙にはじまり、中間に農耕の技術の指示があり、牛馬の繁殖、人間の幸福、貢納の完了を予祝して完結しているようである」と書いている(『沖縄民俗学の方法―民間の祭りと村落構造』。ここからは、マユンガナシが、稲作技術の伝来者を原型としていることが示唆されるように見える。

 また、福寛美は、「おもそろうし」の次の歌謡も、実在の男性を指したものだという重要な指摘を行っている(『沖縄と本土の信仰にみられる他界観の重層性』)。

 一 みるや仁屋/世馴れ神やれば/けわいつ
 又 みるや仁屋/世付き神
 又 みるや仁屋/意地気神
 又 みるや仁屋/大国神
 又 意地 切り遣り/金若子 差しよわちへ
 又 意地 切り遣り/金みさき さしよわちへ
 又 金若子 紐鈴は 下げて
 又 金みさき 鳴り鈴は 下げて

 この他にも、男性の仮面仮装の系譜に属するミロクも、新しく流入した信仰を来訪神化したものだと言える。


葬儀の三角形

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 古代琉球弧の葬儀は、埋めることと埋めないことをめぐっていたように見える。埋めるとは文字通り、埋葬のことであり、埋めないとは風葬と呼びならわしてきたように、風に晒して骨化させることだ。

 ぼくたちは洞窟や叢林での人骨を目にしてきているので、これは容易に了解することができる。風葬をしてそれきりの場合は、右上の頂点に位置する。ただ、それだけではなくて考古学上、埋葬された人骨も発掘されているから、左上の頂点もあったのだ。

 この二つの類型だけではないのは、何らかの葬法のあと、洗骨をしてきたからだ。すると、未開の琉球弧にぽいて、「埋めること」、「埋めないこと」、「洗うこと」の三つを頂点とした葬儀の三角形を描くことができる。

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 洗骨は、風葬の後の洗骨も、埋葬の後の洗骨も両方、あった。亀甲墓に納めたあと洗骨する場合は、「埋めない」から、右上の頂点から下の頂点に向かうことになる。埋葬の後に洗骨する場合は、左上の頂点から下の頂点に向かう。

 『他界観念の原始形態―オセアニアを中心として』において、棚瀬襄爾は、オセアニアにおいて事例も少なく洞窟葬が独立した葬法なのか判断できないとして、台上葬や樹上葬と同じ乾燥葬の一種ではないかと見なしていた。琉球弧でもっとも一般的だったと思われる風葬、洞窟葬がオセアニアでは広い分布を示さず、これは乾燥葬のひとつと考えられた。

 ところで台上葬や樹上葬の特徴には再生信仰が伴うことだった。すると、琉球弧の再生信仰は、乾燥葬の一種としての風葬、洞窟葬に由来すると考えることもできるが、そう単純ではないと思える。再生信仰と風葬、洞窟葬がセットで語られたことはないからだ。

 一方、メラネシアにおいては、地下他界、埋葬、頭蓋保存、死穢がセットである習俗が濃密に現れている。おまけに来訪神儀礼がよく出てくるのもメラネシアだ。頭蓋保存は、埋葬後、頭蓋のみを取り出し保存するものだが、これは洗骨の際、とりわけ頭蓋を重視する琉球弧とも似ている。すると、「埋めること」から「洗うこと」に向かうベクトルは、琉球弧の元型のひとつとして見なすことができるように思える。

 本来、「埋めること」と「埋めないこと」には、対立する思考があるはずだが、琉球弧の場合、それが明瞭に現れてこない。琉球弧にも樹上葬は認められるがこれは祝女だけが行ったもので、ふつうの島人に拡張して考えることはできない。なぜ、洞窟であり叢林だったのか。これはもしかしたら、「埋めない」葬法なのではなくて、「埋められない」葬法だったのではないか。仮にそうなら、琉球弧の葬儀は三角形を構成せず、傘を閉じるように、「埋めること」と「洗うこと」の線分で表すことになる。

 「埋める」ことが本来的であったとして、トロブリアンド諸島の例をみれば、再生信仰は埋葬という葬法からも発生しうるわけだ。

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 仮に風葬や洞窟葬が、本来的な葬法ではなく、「埋められない」埋葬だとしたなら、洞窟や叢林に置いたことは、地下他界への入口としてそうしたのではないかと考えることができる。

 洞窟葬とは何だったのか。もっと突き詰めなければならない。

 洞窟葬は、家を捨てる遷居葬の系譜において、家を捨てなくなり死者を外に出した場合は、洞窟葬のみになる。それとは別に、「埋められない」から洞窟においた場合は、「埋める」埋葬と同じ態度でこの場合は、洗骨を伴った。洞窟葬にはこの両者が混在しているのではないか。

 そして琉球弧の再生信仰は、トロブリアンド諸島と同様、母系社会の強さがそれを生んだ。象徴的にいえば、おなり神信仰だ。

埋める埋めない

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 メラネシア、ニューギニアにおいては、地下他界、埋葬、頭蓋崇拝そして、一部には祖先崇拝が結びついていた。ここで、遷居、つまり家を捨てる行為に目を向けると、メラネシア、ニューギニアだけでなく、その西方の東南アジア諸島まで分布が広がる。

 そしてスマトラ島のクブ族やルソン島のイスネック族のように他界観念がない場合もあれば、ニューブリテン島のスルカ族のようにあちこちにある場合、ニューギニアのツベツベ島では、近くの島の洞窟から海の下に入って、いくつかの通路を経て山に行くという場合、ワグワガ族は西方の海の下、マライ半島のサカイ族では地下あるいは果物の島、ケンタ族では西方の死者の国、と他界観念はさまざまである。つまり、家を捨てる行為は特定の他界観念に結びついたものではない。

 これは他界観念という以前に、死や死者に対する態度の一系譜に属するものなのだ。もう少し言えば、死者による対幻想の欠損への対処である。家を持たなくても、アボリジニでも死者が出ると、その野営地を去った。対幻想の欠損を埋める、再編するには、その場を去る必要があったのである。それは、対幻想と自己幻想、共同幻想が明瞭に分離できなかったことを示している。

 埋めない葬法のひとつは、この、家を捨てる行為から発生している。それはやがて家を持つ段になると、対幻想は家という形で形態化され、そこを去る観念を生む。そして次第に、対幻想が共同幻想に対して立ち位置を持つようになると、死者を家の外に出すという様式になる(cf.「無他界論 メモ」)。

 もうひとつの埋めない埋葬は、埋められない埋葬ということだ。つまり、隆起珊瑚礁の環境は、埋める場所を容易に見つけ出すことができなかった。その場合は、叢林や洞窟にその場を求めざるを得なかった。その中には、地下他界への入口として光と闇が交錯する場所を選んだ場合もあったはずである。 

 「埋める」ことと「埋めない」ことに含まれる観念は、明瞭に対立せず、両者は交わりの部分を持つ。「埋めない」叢法には、死を機に家を捨てる習俗の流れがあり、「埋める」叢法には、地下他界観念などの流れがある。しかし、埋めないからといって地下他界観念ではないとは言えないし、「埋める」からといって家を捨てないとは限らない。埋める、埋めないは本質的な分け方ではないということだ。


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『葬制の起源』

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 大林太良の『葬制の起源』から、琉球弧ソバージュの葬制について肉づけしていきたい。

 前期旧石器時代の洞窟遺跡かたはたくさんの頭蓋骨が発掘されている。中期旧石器時代も同様。これが複葬を示すものか、よく分かっていない。ヨーロッパの洞窟や岩かげで、葬制を見出すことができる。これは、「死者は生者の居住する場所に葬られたことを意味している。若干の例ではこうした場所を死者にゆだねて、生者は別のとことに移ってしまった形跡がある(p.18)」。後期旧石器時代も頭蓋骨だけが孤立して発見される例は後を絶たない。新石器時代開始前後には、洞窟の入口へ葬ることが始まっている。

 狩猟民文化と牧畜民文化には、死体放棄が属し、これに反して、植物に関係した文化、つまり農耕文化には土葬が属している(p.31)。

 単葬の形態。
 1.死体を見捨てること。死にかかったものを見捨てる。死体からの逃走。
 2.死体の破壊。鳥葬、火葬。
 3.死体をしまうこと。埋葬、樹上葬、台上葬。

 死体保存は赤道文化、死体破壊は北方文化。

 二つ以上の葬法が接触し混合したときに複葬が生れる。また、複葬は長期間の定住を前提にする。狩猟採集民のなかにも複葬はあるが、大部分は農耕民文化(p.97)。複葬は霊魂の表象と密接に結びついている(p.102)。

 一般的に地下の他界からは地上に戻ることはない(p.148)。

 大林の議論を離れて琉球弧の葬法の流れを考えてみる。

1.埋めない(単葬)

 1)生者は家を死者に譲る。家を捨てる。
 2)定住するようになって、死者は洞窟や叢林に葬られる。

2.埋める(複葬)

 1)埋葬する。
 2)頭蓋を洗骨する。

3.埋められない埋葬(複葬)

 1)死体を洞窟前などに置く。
 2)洗骨して納める。

 「埋める」と「埋めない」とでは、葬法の考え方は違うから、この二つは異系列に置く。一方で、埋めずに家が、死者の家から生者の家へと変遷する流れがある。他方に、埋めて取り出し、頭蓋を中心に洗骨する流れがある。ここでもうひとつ、隆起珊瑚礁環境は、埋めたくても埋められない土壌であることを踏まえると、埋められない埋葬の流れを考えることができる。この場合は、一時的に死体をどこかへ置き、洗骨をする。これも「埋める」形態が生れた時から並行してあったと考えられる。そこで、風葬と呼ぶものには、洗骨が伴うものと伴わないものは最初から混合して現れたのではないか。


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『これが沖縄の生きる道』

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 PUFFYの歌を思い出す書名。あの曲のように、明るく軽やかに読まれてほしいということだろうか。扱われているテーマはどれも重く厳しいけれど、本当はあの曲のようなポジティブさをもっと出したいんだよね、ということなら分かる。

 この本を読みながら、時にふと過ぎる内省のようなことが、何度も繰り返しやってきた。この本の主張は、「内地の失敗経験を検分すべき」(宮台真司)ということなのだけれど、そう言われたときにも過ぎるものだ。

 たとえば、1940年に日本民芸協会の柳宗悦が沖縄の標準語励行運動について、「やりすぎじゃないか」と苦言を呈したのに対して、沖縄県の学務部が県民が卑屈、引っ込み思案になるのは「自己の意思発表に欠くる結果」だから、標準語励行は「全県民の切実なる問題である」と、彼らを追い返してしまうという、あのやるせない事件。

 本書でも仲村が引いている事例なのだが、このときの県の回答は底が浅かった。引っ込み思案なのは、標準語が使えないからというのは表面的なことで、その淵源には、海の向こうからやってきた者を生者か死者か分からず、神とさえ見なした心性が横たわっている。そこからみれば、文字も漢字も標準語も、神のような絶大な力を持って立ち現われたに違いない。

 ようするに、貧しかったところに突然近代がやってきたような感じなんですよね。復帰後もものすごいスピードで古い村社会は解体しました(仲村清司)。

 ここの「貧しかったところに」というところを言い換えてみれば、古代に突然近代がやってきたような感じと言っても、誇張とは言い切れないものがある。自分のこととして言えばそれは、人づき合いのなかで、交渉ごとは苦手であるとか、色んな人がいるよねという鷹揚さが足りないとか、損得勘定をもとに立ちまわれないというか、世慣れしないというか、うまく言えないのだが、自分には何かが大きく欠落しているのではないかと、というような実感として降りてくる。そしてこの大半は自分の欠点として済ませていいのだが、ひょっとしてそれだけではなく幾分かは、島人が、日本にいう中世、近世という蓄積を経てきていないからではないだろうか。うまく対象化できていないので、整理した言葉にもならない、あいまいなぼんやりとした感じなのだけれど。

 言ってしまえば、島人の極度の人見知りとお人好しだ。人見知りは日本人の特質かもしれないから、ここでは極度の、と形容してみる。人見知りは、芸能などの舞台があれば、その時だけ違う風に演じられる。お人好しは、反転すれば、利得しか考えないことと同じになりうる。この、極度の人見知りとお人好しは、反転はあっても変形されることなく手渡されてきたことが、ことの根っこにはあるのではないだろうか。

 欠落をマイナスと捉えて、これから中世と近世を身につけようというのではもちろんない。それに世代交代があっという間に解消してしまうことかもしれない。けれど、できうれば、これを美質としてそのままに生きる道がほしいというのは、PUFFYの曲のようにいきたい願望とともにある。

 すると、それには世界史の先端に超出するしかないという途方もない考えに導かれる。けれど、本当に途方もないのか。

 沖縄と日本は一六〇九年の薩摩の琉球支配の時代から、四〇〇年にもわたる腐れ縁が続いています。そろそろこの腐れ縁的な関係を変える覚悟を決める時期に来ています(仲村清司)。

 だから、独立、と直結せずに、できるだけ細やかにしなやかに考えること。歯切れは悪いけど、仲村の発言を反芻しながら、そういう根っこのところに終始思い至る本だった。


『これが沖縄の生きる道』


『心の先史時代』のトーテミズム理解

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 認知考古学は、現生人類に起こった脳の変化を、ネアンデルタール人では博物的知能と社会的知能は別々に分かれていたが、現生人類ではそれらを横断する結べるようになったと主張している。その、流動的な知性が生み出すことができるものは比喩だ。

 その比喩のもっとも典型的な例はトーテミズムとして言うことができる。

 トーテミズムは人間/動物という硬貨のもう一面である。それは動物に人間の特徴を付与するのではなく、人間の個人あるいは集団を自然界埋め込むものである。そのことは、出自を人間以外の種に求めるという行為に端的に表れている(p.217)。

 これは自然哲学の考えから言えば、こうなる。

 人間は、全天然自然を人間のイメージ的身体とし、人間は全天然自然のイメージ的自然になる。人間が、「全天然自然を人間のイメージ的身体とする」とは自然の擬人化であり、人間が「全天然自然のイメージ的自然になる」ということは、「人間の個人あるいは集団を自然界埋め込むもの」だ。

 レヴィ・ストロース。動物は食べておいしいだけでなく、「考えておもしろい」。トーテミズムは、「文字も科学もない集団に、人間の集団間の関係性を概念化するためのすぐ間に合う手段を与える、自然界の種の研究」。

 トーテミズムの三つの特徴。

 1.トーテミズムは狩猟採集の生活様式で暮らしている人間の集団に一般的。
 2.トーテミズムは動物に対する思考と人間に対する思考の間に認知的流動性を必要とする。
 3.考古学的な証拠をもとにすれば、トーテミズムは上部旧石器時代が始まった頃から人間の社会に広まっていた可能性がある(p.218)。

 「認知的流動性」と呼んでいるものは、下図を見ると、分かりやすい。


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『心の先史時代』


葬法におけるメラネシア、ニューギニアとの類似点

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 棚瀬襄爾の『他界観念の原始形態―オセアニアを中心として』から、改めて琉球弧の葬法と似ているものを取りだしてみる。


 1.マヌス族(アドミラルティ諸島)。死体が完全に腐敗して骨だけになるまで埋葬しないで、家のなかにとどめておく。骨だけになると、海水で洗って解体し、分配する(p.200)。

 2.スルカ族(ニューブリテン島)。死の翌日に埋葬する。家の中に墓穴を掘り、死体を坐位にして埋める。死体の上部を地上に出す。親族は男女別々に若干期間、死体の傍で寝る。のち、しばらくして死者の霊魂を追い払う。死体の肉が完全に腐ると、骨を墓から取りだす。その後、葬宴を催す(p.205)。

 3.ニューブリテン島。死の第一夜は、二人の者が死者の両側に一人ずつ寝る。これは彼らの霊魂が、あの世へ供をするためであるという。死体は埋葬される(p.206)。

 4.ソロモン諸島。死んだ親族や知友の頭蓋を各村の霊所に保存し、そこへ他所者が入るのを非常に嫌がる。墓は港近くの岬にあって、木や草で覆われている。この岬の上にたくさんの小廟があって頭蓋が納められている(p.216)。

 5.トレス諸島。今では埋葬が一般的だが、往時には家の近くに台をつくってその上に死体を横たえ、腐敗せしめた。10日目に頭蓋を身体から話した(p.226)。

 6.ロイヤルティ諸島のリフ。死体は埋葬する。土産筵で包んで、接近しがたい険しい岩穴に納めるのみのこともある。珊瑚礁はどこでもきわめて浅いから墓穴を掘ることができるのは砂浜のみである(p.231)。

 7.ベレプ諸島(ニューカレドニア島の北)。浅い墓穴に頭を上にして坐位で埋葬する。頭だけ地上に出しておくこともある。後で頭蓋を取るためである。墓掘り人は穢であるとして、厳重に隔離される。死後一年すると、死体の肉が完全に腐り、頭蓋を取り去って住居近くの各家族墓地の地上に並べる。祖先崇拝(p.232)。

 8.ニューカレドニア島南々東部の島人。死体は埋葬するが首だけを出しておく。10日経つと、首を取り、頭蓋を保存する。病気や災害の時には頭蓋に食物を手向ける。彼らの神々は彼らの祖先であって、その遺品を保存し、偶像崇拝する。死者は白人に化現するという信仰もある(p.233)。

 9.トレス海峡西部諸島。死体は台上に安置し、筵ぶきの屋根をつくる。数日すると、死者の霊魂を追う。死者の頭を切断し、赤く着色して飾り籠に入れる(p.312)。

 10.トロブリアンド島人(ニューギニア東方海上)。死の翌朝、埋葬する。墓の上に小屋をつくり、近親者は三晩、そこで寝る。死者の兄弟たちは、死後、死者の家を破壊するふりをなし、親族が制止する。埋葬後、しばらくして死体を発掘して頭蓋を石灰入れとして死者の子供が使用する(p.316)。

 11.マーシャルベネット島人。埋葬する。あとで掘り出す。女の骨は夫、母、兄弟、姉妹、姉妹の子供が発掘し、全員が洗骨する。頭蓋は寡婦の家に保存される(p.316)。

 12.ダントルカストー北部のメラネシア人。夫が死ぬと、寡婦が遺骸とともに寝る。死体は埋葬する(p.317)。

 13.ツベツベ島。埋葬に関係した親族は、五、六日間、親族に食事を供せられて、日夜墓にとどまる。肉が腐ると、葬宴を行い、墓から頭蓋を取りだして、家のなかに置く(p.318)。

 14.タミ族(ニューギニア)。死体を家の下、または付近の浅い墓穴に埋葬する。全村が墓の上に立てた小屋の周囲に集まって、飲食しながら宿営する。最後に慕情の小屋を倒して燃やす。死者の肉が腐り去ると、死者の骨を掘り出し、岱赭(たいしゃ)で赤く塗り、これを束にして、二、三年家の中に保存してから埋葬する。最後に埋葬すると、墓には厳重に木の垣を結び、植える。しかし、年が経って記憶が薄れると、墓には構わなくなる(p.324)。

 15.ヤビム族(ニューギニア)。死者は家の近くの浅い墓穴に埋葬される。死者が家長または妻であるときは、家が立派でも棄てる。墓上には仮小屋をつくり、死者の家族は6週間ないしはそれ以上そこに住む。愛児や重要人物の場合は、埋めずに包んで腐るまで家のなかに置き、頭蓋等に油を塗り赤く染めて若干期間、保存することもある(p.326)。

 16.カイ族(フィンシュハーフェン奥地森林地帯)。死後、2~3日目に埋葬する。墓は家の下に掘る。残された妻、夫は数日間、墓の上の小屋に日夜、暮さなければならない。誰かの死んだ家は捨てる(p.328)。

 17.パプア族(クロムエル山麓のケーニヒウィルヘルム岬付近)。家のなかに掘った浅い墓穴に埋葬する。残された妻、夫は1週間くらい墓に留まり、番をする(p.330)。

 18.ツムレオ族(ベルリンハーフェン)。死体を木棺に納め、ややあって家の中またはそばに埋葬する。墓を家の外につくるときには、墓上に小屋をつくり、死者の妻や妹などの女の親族は、数週間から三ヶ月位のあいだ、喪屋に別居する。寡婦は喪の印として石灰を身体に塗り、時々悲痛な挽歌を歌う(P.332)。

 19.マリンド・アニム族(南部ニューギニア)。死者の家のなかでふだん坐っていたところ、寝ていたところ、炉辺を選び、日没直前に埋葬する。1年後、骨を掘り出し、岱赭(たいしゃ)で赤く塗る。頭蓋も洗って赤く塗る。死者崇拝は行われるが、頭蓋(骨)崇拝は行われない。死霊を恐れる。イモの秘密結社では、団員の死去に際して、デマが登場して、神話や死去に際してのデマの役割、あの世への旅を表現する(p.339)。


 似ていると感じさせるには、メラネシア、ニューギニアで、とりわけニューギニアにおいて濃厚になるように見える。まず、どちらにおいても、埋葬後、骨を取りだす葬法が見られる。頭蓋骨の重視も共通している。

 添寝は、ニューブリテン島とダントルカストー北部のメラネシア人、スルカ族にある。琉球弧の添い寝に、ぼくたちは霊魂の転位の仕草を見たが、ニューブリテン島では、あの世への霊魂の供のためであるとされている。

 家に埋葬する他に、家の近くに埋葬し、その上に小屋を立てる例が、トロブリアンド島、タミ族、ヤビム族、ツムレオ族に見られる。また、小屋を立てないが、そこに近親者が滞在するのがツベツベ島だ。琉球弧の例を見てきた目には、これは、もともと死者を家に埋葬していたのを、外に埋葬するようになって、墓の上に小屋を立てたものとして見ることができる。民俗学者たちの見聞にははっきり出てこないが、殯をする例もあるのではないか。トロブリアンド島では、死者の家を壊す真似と制止が儀礼的に加わっているが、これはもともと壊していたことを示すのだと思う。

 ロイヤルティ諸島のリフの例は、珊瑚礁環境における葬法として、「接近しがたい険しい岩穴に納めるのみ」という点が近しい。ペレプ諸島は、墓掘り人の穢れ。同じくペレプ諸島とニューカレドニア島南々東部の島人では祖先崇拝。トレス海峡西部諸島、タミ族、ヤビム族、マリンド・アニム族とは頭蓋を赤く塗ることだ。

 単純な共通点の数では、タミ族、ヤビム族、スルカ族、ベレプ諸島、トロブリアンド島がより近しい。おまけに、タミ族とスルカ族のいるニューブリテン島は仮面仮装の儀礼の分布しているところでもある。

 ぼくたちは琉球弧ソバージュの野ざらしの骨の由来が、家を捨てる段階を持ったこととは別に、埋められない埋葬の系譜もあるのではないかと考える。すると、殯の期間、死体の白骨化を待つのは、琉球弧ソバージュの特異な点ではないかという考えに導かれるが、大和の殯も同様の期間を持っていた。だから、この考えは違うことになる。

 するとむしろ、アドミラルティ諸島のマヌス族のように、「死体が完全に腐敗して骨だけになるまで埋葬しないで、家のなかにとどめておく。骨だけになると、海水で洗って解体し、分配する」方が、この点では近しい。

  

「樹上葬民族の霊魂観念」

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 棚瀬襄爾の『他界観念の原始形態―オセアニアを中心として』から。

 樹上葬、台上葬を行うオーストラリア先住民の霊魂観念。彼らは、樹上の枝間に台を作って安置し、一定期間が過ぎて肉が腐り去ると、骨を処理し複葬を行う。

 病因は、死霊などによるものではなく、何か力あるものが身体に入ったことが原因であると考えられるので、物体の形をしている。

 樹上葬に伴う習俗は、死脂や死体から浸み出す死汁を遺族が自分の身体に塗ること。飲みさえする場合もある。これは死穢観念の積極的な欠如も示す。

 死霊は死体が樹上にあるあいだは樹の辺りをさまよい、服喪を監視するとも言われるので、沈黙の掟も守られるが、骨葬が終わると死霊は父祖の地へ去り、服喪も終わる。

 これらの先住民は、男女の性交が出産の原因とは考えず、精霊児の概念を持つ。トロブリアンドの霊魂観念はメラネシア的なものとオーストラリア的なものがやや複合しており、バロマは形像的だが、生命原質的である。

 生命霊の観念が強い時には、父祖はあるがごとくには祭られない。供養、祈祷、恵みを受けるという対人儀礼や信仰は発展しない。

 再生信仰を持つ場合においては、現存の人々は誰かの生れ代りである訳であるから、世代を通じての集団の一体感が強まるが、また他面ではどこまで行っても生れ代りなのであるから近死者が崇拝される形は取らず、結局始祖にさかのぼらざるをえない。この始祖が生命の原質を撒き、それが再生を重ねて現在に至ると見る訳である(p.852)。

 このような霊魂観念の場合は、他界信仰は一時的になるもののほか発達しない(p.854)。


 琉球弧ソバージュからみると、マブイ(霊魂)を本体とみる見方と再生信仰をとても近しく感じる。そして、再生信仰の根拠は、「始祖が生命の原質を撒き、それが再生を重ねて現在に至る」というよりは、母系社会の一体感であると思える。その点は、トロブリアンドと同じなのではないだろうか。しかし、母系社会の崩れ、性交による妊娠の認識の獲得から、再生信仰も薄れていった。死者に対する儀礼はそこから強化されることになる。

「地下の他界に伴う霊魂観念」

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 棚瀬襄爾の『他界観念の原始形態―オセアニアを中心として』から。

 地下信仰を持つ先住民では、死者に対する関心が著しく高まる。埋葬後の複葬、洗骨、頭蓋保存。霊魂の遊離性と人間形態的な霊魂観。対人儀礼も発達し、死霊は見えざる社会構成員ともなる。

 南部メラネシアの地下信仰を持つ先住民。頭蓋を供養して、病気治癒、豊作、豊漁を祈ると同時に、死霊の村送り、追い払いの儀礼を行う。愛着と恐怖。定住生活との関係。

 死霊の遊離性の観念に伴って、生者もまた肉体と霊魂よりなり、霊魂が中心であるという観念が成立する。北部メラネシアに顕著。食物の供養や副葬は南北メラネシアを通じて見られる。

 ニューギニア。病気や死の原因が、霊魂の離脱によるものと見なす。


 琉球弧ソバージュのひとつのプロトタイプとして、地下他界があったと見なしてよいのではないかと思える。埋葬、複葬、洗骨、頭蓋崇拝、祖先崇拝、死霊への愛着と恐怖、霊魂の離脱による病気と死の複合観念である。

 動植物への転生から人間への再生信仰へと至る場合と、トーテミズム原理の崩壊により祖先崇拝へと向かう場合は別になるはずである。ベレプ諸島は、祖先崇拝で、あの世の生活を観念しているが、転生、再生信仰はない。ニューカレドニア島南々東部の先住民の祖先崇拝では、死者が白人に化現するという信仰もある。これは西洋人との接触以降の信仰だろうが、両者が同居して表れる場合もあるということだ。

 しかし、原理的にいえば再生信仰が旺盛なら死者に対する儀礼は発達せず、再生信仰がなければ死者に対する儀礼が発達するはずである。琉球弧ソバージュの場合は、祖先崇拝があり、再生信仰が強まり弱まる段階があって、ふたたび祖先崇拝が強くなったのではないだろうか。祖先崇拝の方が長いと考えることになる。

タミ族の葬法と他界観念

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 棚瀬襄爾の『他界観念の原始形態―オセアニアを中心として』から。

 タミ族(ニューギニア)。

 ◇葬法
 死体を家の下、または付近の浅い墓穴に埋葬する。死体から出てくる蛆が出なくなると、短い霊魂があの世に行ったと考える。供物は死者があの世に持っていくのであるとともにあの世の人も喜ばせる。

 死霊は自分を殺した魔術師を恨むが、生者は魔術師と仲良くしないと生活できないので、魔術師に対して大声で怒っていることを語って、死霊を慰める。

 死者に対する哀哭(あいこく)と服喪は全村が参加する。女は死の舞踏を踊り、男は埋葬の手伝いをする。死者があると、親族の死霊も村に集まると考えるから、喪者を一人死霊に晒しておくことはなく、特に夜は全村が墓の上に立てた小屋の周囲に集まって、飲食しながら宿営する。8日間くらい続く。

 服喪期間は2、3年に及ぶ。喪明けには死者のために夜通し、踊りをなす。豚とタロ芋汁を多量に用意し、村人をもてなす。食料次第で、8~10日間、続けられる。

 最後に慕情の小屋を倒して燃やす。死者の肉が腐り去ると、死者の骨を掘り出し、岱赭(たいしゃ)で赤く塗り、これを束にして、二、三年家の中に保存してから埋葬する。最後に埋葬すると、墓には厳重に木の垣を結び、植える。しかし、年が経って記憶が薄れると、墓には構わなくなる(p.324)。

 考えてみれば、死体から蛆が出るのだから、蛆を転生の姿と考えるのは自然なことだ。蛆が出終わるのを確認しているのだから、埋葬までは時間がある。その期間は殯だったのかもしれない。墓の上の小屋を、ぼくたちは家を死者のためにした名残りだと考えている。また、死者の骨を岱赭(たいしゃ)で赤く塗るのは、もとは血で行っていたものであり、死者の再生への信仰が伏流していると見なしている。

 ◇他界観念
 人間は短い霊魂と長い霊魂を持っている。長い霊魂は影と同一視され、睡眠中、身体を離れ、覚める時に帰ってくる。それがある場所は胃。人が死ぬと、長い霊魂は死体を離れ、遠方の友人に死を知らせる。その後、ニューブリテン島西岸のマリゲプを経て北岸の村に行く。

 短い霊魂は、死後のみ身体を離れ、しばらく死体の付近をさまよってから、ランボアムという地下界に行く。ランボアムは現世より美しくより完全だが、現世と酷似している。ランボアムで死んだ霊魂は、蟻や蛆になる。森の精霊になって、人間に悪戯するという先住民もいる。時に蛇になって、夕方や夜、屋根裏などに現れる。

 発作を伴う病気は、近親の死霊が病人の長い霊魂を取っていったために起こると考え、トリトン貝に息を吹きかけて呼ぶ。病気は魔術によるという観念もある。

 仮面舞踏をする秘密結社に関連する神もいるが、重要な意義は認めていない。タミ族が関心を示すのは、死者の霊魂であり、祖先崇拝をする。祖先はそんなに古くに遡らず、記憶の範囲に過ぎない(p.289)。

 ここは重要な点で、始祖、祖先、転生信仰との関連が語られているようにみえる。仮面儀礼の神を重視しないというのは、人が植物、動物と等しいし、どの存在にもなるという精霊の世界から遠ざかっていることを示している。もう、祖先とのつながりでしか想起されていない。しかし、転生信仰もあるので、人間のみの系列を重視するまでにも至っていない。そこで、記憶の範囲のみが重視されるのだ。

 この流れでいえば、琉球弧ソバージュは始祖重視、再生信仰、祖先崇拝という段階を持ったかもしれない。


 


ヤビム族の葬法と他界観念

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 棚瀬襄爾の『他界観念の原始形態―オセアニアを中心として』から。


 ヤビム族(ニューギニア)。

 ◇葬法
 老衰死のほかは自然死はなく、魔術によるものと考える。魔術師の卜占し、復讐をする。 

 死者は家の近くの浅い墓穴に埋葬される。死者が家長または妻であるときは、家が立派でも棄てる。墓上には仮小屋をつくり、死者の家族は6週間ないしはそれ以上そこに住む。

 残された夫は人から見えぬ片隅に一人で住んで、身体を洗わず外出もしない。ふたたび外出できるようになると、喪帽をかぶり、寡婦は大きな網をかぶる。服喪期間は数ヶ月から数年までさまざま。

 愛児や重要人物の場合は、埋めずに包んで腐るまで家のなかに置き、頭蓋等に油を塗り赤く染めて若干期間、保存することもある。奥地の村では、寡婦は夫の死に随伴するために殺されることがある(p.326)。

 寡婦がかぶる大きな網は、琉球弧ソバージュにおいて、死体に被せる網を思わせる。死霊からのシールドの意味をなしているのかもしれない。子の場合に、頭蓋骨を赤く塗るのは、やはりこの行為が再生信仰を意味しているのだと思う。


 ◇他界観念
 死霊は、あの世では影のように、この世の延長の生活を送る。他界の位置はシアシ諸島のひとつ。死者の霊魂は、動物に転生するという観念もある。水鏡にうつる姿としての霊魂はシアシ島に行き、陸に映る影としての霊魂は転生する。

 死霊は帰来することがあるので、死後数日は特に恐れられ、死者の名前も呼ばない。死者に食べ物を供するが、死者はそれらの霊魂だけを食べるので、実際には生者が食べる。死霊を忌み恐れる気持ちが強く、特に殺された人の霊魂は恐れられ、危険な霊魂は太鼓を打ち、喚声をあげて駆逐し、模型の舟にタロ芋と煙草をのせて、あの世の島に出してやる(P.290)。

 アボリジニの沈黙の掟もそうだが、死者の名前を呼ばないのは、死霊との関係を断絶させる仕草だと言える。

 

 

スルカ族の葬法と他界観念

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 棚瀬襄爾の『他界観念の原始形態―オセアニアを中心として』から。


 スルカ族(ニューブリテン島)。

 ◇葬法

 死者の作物を荒廃させ、若い果樹を切り倒す。成熟した果物は遺族に分配する。豚を殺し、その肉も同様に分配する。もし富者であれば、その妻は殺されることがある。死の翌日に埋葬する。家の中に墓穴を掘り、死体を坐位にして埋める。死体の上部を地上に出す。親族は男女別々に若干期間、死体の傍で寝る。

 のち、しばらくして死者の霊魂を追い払う。その時期は死者が聞いてはいけないので、内緒話で決める。追い払いの前晩、たくさんのココ椰子の葉を集める。翌朝、ある鳥の鳴き声を合図に、寝床から起きて喚声をあげる。壁を打ち、柱をゆさぶり、枯れたココ椰子の葉に火をつけ、最後に道に飛び出す。この時、死霊は家を離れる。

 死体の肉が完全に腐ると、骨を墓から取りだす。その後、葬宴を催す(p.205)。

 琉球弧ソバージュでは、酒井卯作によれば、追い払うのは死霊でなく悪霊(ムン)だった。魔術という人との関連はなく、悪霊だと考えられている。しかし、追い払いの激しさは、とても似ていると思える。(cf.「30.「モノ追いにみる死霊」

 豚を遺族に分配するのは、もともとは死体の肉だったかもしれない。


 ◇他界観念
 流星は高く上がった死霊が海に水浴にくるのだとし、星の尾は死霊を追う時に焼いたココ椰子の葉であるとする。海の燐光は水に戯れる死霊であるともいう。

 スルカ族は、星と死の意味づけが濃い。ただ、地下界の表象はある(p.183)。地下界観念のある可能性が高い(p.254)。「他界は地下のみであり、死霊は夜、きわめて恐れられる」という報告もある(p.254)。これは例外的で、北部メラネシアは地上他界の観念を持つ。

 社会は母系的(p.267)。

 地下界信仰を持つ南部メラネシアの民族は、母系社会で農耕民族。母系的な農耕民によって地下界信仰が抱かれた(p.771)。

 スルカ族が該当するか、わからないが、ニューブリテン島は、トゥブアン、ドゥクドゥクの儀礼が行われている地域でもある。


ベレプ諸島の葬法と他界観念

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 棚瀬襄爾の『他界観念の原始形態―オセアニアを中心として』から。


 ベレプ諸島(ニューカレドニア島の北)。

 ◇葬法
 聖域に掘った浅い墓穴に頭を上にして坐位で埋葬する。頭だけ地上に出しておくこともある。後で頭蓋を取るためである。悲嘆の印に死者の親族は、自分の耳を引き裂き、腕や胸に大火傷をつける。死者の家、網などの道具を償却し、死者の畑を荒らし、ココ椰子を斧で切り倒す。動機は説明されていない。

 墓掘り人は穢であるとして、厳重に隔離される。役目を果たすと、4~5日間、厳重な断食を守り、妻と離れて、死体の近くに留まらなければならない。手で食べ物に触れてもいけない。彼らは尊敬される。

 死後一年すると、死体の肉が完全に腐り、頭蓋を取り去って住居近くの各家族墓地の地上に並べる。祖先を崇拝する一種の墓地。

ベレプ島の真の宗教は祖先崇拝で、彼らは祖先の功徳を信じ、この聖域は彼らの犯すべからざる財産であり、他人の聖域を犯すことはない。彼らは病者を治そうとすれば、まず家族の1人が甘藷の葉を携えて聖域に行き、これを頭蓋に供えて、その力を得、次いで同一のものを父、祖父の木に供えて力を得て、息をふきかけて病者を治そうとする。漁に成功せんとすれば、ある植物を焙って、これを頭蓋に供えて成功を祈る。甘藷の豊作を願う時にも、ヤム芋の取り入れ前に不作の心配のある時にも、頭蓋に祈るのである。絶えず祈るために彼らは祈祷柱を発明し、これを墓または頭蓋置場に立て、これをもって祈祷に代える習俗も持っている(p.231)。

 墓掘り人に対する穢れの観念が琉球弧に似ている。ベレプ島でも家を捨てている。この例を見ると、捨てるのは家だけでなく、畑も、死者の持ち物はそうされたということかもしれない。

 墓地にあたる聖域は、洞窟や御嶽に対するのと似た態度を思わせる。

地下から西方へ

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 棚瀬襄爾は『他界観念の原始形態―オセアニアを中心として』において、西方の他界観念は、民族移動によるものだけではなく、もう一つの理由が考えられるとしている。

他界が西方に固定せられる原因をなしたものは太陽に関心が深かった民族と、地下界の信仰を持った民族の混合ではなかったと考えるのである(p.796)。

 たとえば、ハーヴェイ諸島のマンガイア島では、死者の霊魂は下界に行くとされているが、冬至と夏至の朝陽に面する島の二つの地点に集まり、朝陽が昇る瞬間に太陽の通る道に行くために出発し、夕方、沈む太陽に面して集合し、太陽が地平線に沈む瞬間に、死霊の一行は夕陽の黄金色の光跡を追い、きらめく海を越えて太陽とともにあの世へ下る、とされている(p.396)。

 ここから棚瀬は、太陽と西方は無関係ではないとする。ポリネシアにおいては西方への思考は明確ではないが、地下界を信じる先住民において、地下界への落日の場所、死霊がその後を追う夕陽が意識されているのはポリネシアばかりではなく、ニューギニア等にも見られることなどから、地下界を持った先住民に、太陽に関心を寄せる種族が交錯したとき、地下界の入口は夕日の沈むところとなって、他界そのものが西方に移行したのではないかと考えている(p.799)。

 この移行は、琉球弧についても言えるものだと思う。

 けれども落日に関係があるにせよ、なにゆえ地下界が西方に移行せじめられるのであるかは更に一考を要する。地下界という現世と垂直関係にある世界が、西方という現世と水平的関係の世界に移行するためには相当の理由がなければならぬであろう。筆者はこの理由は心理学的には太陽に関心を有するトテミズム文化が父権的な男性文化であって、ややともすれば彼らにとって陰鬱な連想を伴いやすい地下界に耐えられなかった点に求めうるのではないかと推測する(p.799)。

 という心理的な理由に求め、また、西方他界が、母権とトーテミズムを持つ種族に起源を持つと指摘している。

 もちろん、地下他界が西方他界になるためには、異種族の到来がなければならないと思える。しかし、地下他界は西方他界とは連結できると思える。それは、地下は垂直、西方は水平と視線が異なるのではなく、地下にしても洞窟や叢林の奥というように、水平視線は加担しているからである。ぼくの考えでは、どちらも人間の身体の高さから下をみる垂直視線と人間の目の高さの水平視線から構成される点においては連続的なのだ。そして、地下他界が、光と闇を二項として持っている点も、太陽の沈む場所としての西方と連続的である。

 こう考えるということは、琉球弧ソバージュの海上他界も、最初は西方他界から始まったのではないかと想定していることになる。東方海上が他界となるのは、もっと後のことだ。こうしてニライ・カナイは地下から海上へと接ぎ木されていった。


サマール島の洞穴葬

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 フィリピン、ボルネオ、マレー半島、スマトラ、ジャワ、セレベス以東の他界と葬法について、棚瀬襄爾は以下のように整理している(『他界観念の原始形態―オセアニアを中心として』)。


 埋葬:坐位・屈位、頭蓋保存、果樹や財物の破却、病因・死因を霊魂の離脱と治療法としての捕霊、財物破却、死穢観念および払浄式。

 台上葬:台上または死体乾燥の工夫、伸展位、全骨保存

 地上の他界観念(山、島)は、この両者の混合によるもの。

 地上の他界は他界観念としては極めて未発達なものである。これを父祖の島といい、あるいは周囲の山と言い、あるいは死者の霊魂が山中の叢林に住むというがごときは他界と言えざる程のものかもしれない。  他界観念の未発達はマライシア人の古い文化の性格を示しているのであろう。(中略)オーストラリアでも台上葬民族には他界観念がほとんど発達していないところを見ると、乾燥葬を古い伝統としたらしいマライシア人にも本来他界観念は未発達であったであろう(p.683)。

 これは重要な指摘だと思える。琉球弧の風葬に視点を提供してくれるからだ。琉球弧にも、他界観念を持たない乾燥葬の種族が北上した。彼らは地下他界を持つ種族との混淆によって、島や叢林をあいまいな他界として観念したことがあっただろう。そして、彼らが風葬を行った。ただし、ここにもひとつの態度があった。

 ミンダナオ島南部、ダヴァオ湾のサマール島人は、地下他界(p.551)を信仰しているが、彼らは丸木舟を柩として使う。これを洞穴に持って行って別に葬儀もせず、黙って納める。墓は共同の所にすることが多く、サマール島西岸の住民は、洞穴の多いマリパーノ島(本文はMalipao-引用者注)をもっぱら選ぶ(p.599)。

 棚瀬は、サマール島において、地下他界信仰を持つのに、埋葬より洞穴葬が多く現れることについて、地理的条件によるものだとして書いている。

 洞穴葬はより多く乾燥葬の系統に属するものと思うけれども、また便宜的な葬法であることも免れず、環境に対する便宜から十分発生し得たことを認めねばならぬと考える(p.686)。

 これは琉球弧にも当てはまるものだ。やはり、風葬には埋められない埋葬という側面があったのだと考えられる。洞穴葬をするパリパーノ島を地図で見ても、琉球弧で言うところの奥武(オー)島と、まさに同じ地先の位置にある。



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