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Channel: 与論島クオリア
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隆起珊瑚礁の島

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 隆起珊瑚礁の島

 与論は隆起珊瑚礁の島。これは、珊瑚礁のある島ということではなく、島自体が珊瑚礁でできたということ、言って見ればまるごと珊瑚礁製ということだ。その上それが盛り上がって島になったという。なんだかすごい。

 島はいつ海上に出現したのか、定かではない。与論と同じ隆起珊瑚礁の島、喜界島の高台をなしている百之台は、最近の研究によれば約十万年前にできたという。それから隆起が始まり島となって、現在では百之台の標高は二百メートルに達している。十万年間で二百メートル隆起したことになるが、これは世界でも最高水準の隆起速度なのだという。

 対するにわが与論はというと、標高は97.2メートルと百メートルにも満たない。その高さは百之台の半分以下で、喜界島と大きく変わらない時代に隆起が始まっているとしたら、隆起速度にかけても与論は与論らしくのんびりだったのだ。

 琉球の古典歌謡集である「おもろそうし」で、与論は「かゐふた」と歌われている。「かゐふた」と言われると「貝の蓋」と連想したくなるが、それは標準語の誤解というもので、「ふた」は集落の意味らしい。「かゐ」の意味はいまだ謎。いったいどんな集落だ形容されていたんでしょう。ただ、この誤解の連想はゆえないことではなく、船旅で与論に近づくと島影はいまに海にも没してしまいそうなほど水面すれすれに見える。それは切なくなってしまうほどだ。「与論小唄」で「木の葉みたいなわが与論」とはよく歌ったもの。与論はそのたたずまいからしてその存在を主張してないかのよう。抱きしめたくなる島なのはこのはかなげなさまからもやってくる気がするのだ。

 けれど、ほんとうはただ平べったいというだけではない。仔細にみると島は三つの台地からできている。島の中央よりやや西に南北に走る崖があって、それがまず島を東西に分けており、崖の西側は低地で茶花などの街がある。東側は東西に走る崖で分かれていて、東北の台地とそれより高く古い街が密集している東南の台地に分かれている。

 そして地図をよく眺めていると、中央に走る崖は、宇勝の手前当りで北北西を軸にずれたような痕跡が見られる。確かなことは分からないけれど、単に珊瑚礁がそのまま均等に盛り上がったわけではなく、地層としてのこの島の成り立ちにもドラマがあったことを伺わせるのだ。

 だから、はかない島影と言っても島内を歩いてみれば小さな坂の繰り返しで起伏に富んでいる。島を二周するヨロンマラソンもかなりハードだという呼び声が高いのは低地にみえるのにアップダウンの激しい島の起伏によるものだ。

「島のはじまり 1」


島のはじまり

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 島のはじまり

 ともあれ、与論は隆起珊瑚礁の島。そのことは、島のあちこちで見かける珊瑚岩からも知ることができる。開拓のため土地を掘れば生まれたてのような真っ白な珊瑚岩に出会う。それを民家では石垣に使ってきた。

 船の誘導灯があるほどの高さの島の中央の高台にも珊瑚岩が見つかる。いや見つかるどころではなく、珊瑚岩がちょっとした渓谷のように連なっていて、与論らしくないちょっとした壮大な景観を楽しめる。そしてその壮大さに見合うように、実はそこは与論の神話に名高いハジピキパンタなのだ。以前は鬱蒼とした森の状態で知る人ぞ知る、知る人しか行けない場所だったが、いまは整地されて誰でも足を踏み入れることができる。もっとも聖地だから、それがいいことなのかどうかは分からないけれど。

 その神話で、島のはじまりはこう言われている。

 むかしむかし、とてもとても、はるかに遠い大昔のことです。
 与論島が、まだ島としてでき上がっていない時代に、アマミクとシニグクのおふたりの神が、魚取りをしようとして舟に乗って、遠いところへ行っている時、舟の舵が浅い瀬にかかって、舟はついに止まってしまった、ということです。
 そこで、ふたりの神は驚いてしまって、その浅い瀬のところへ降りて瀬を見ていると、瀬はしだいに波の上に盛り上がって来つつあるのです。
  島産みをしている。島が成っていく(できてきつつある)。島が生まれつつある。良い島でございます。
 と、アマミクの神がシニグクの神へ、いってくださったということです。シニグクの神は、
  良い島にしましょう。
 といったということです。
 その舟の舵が懸かってしまったところは、「舵引キパンタ」といっている。(山田実『与論島の生活と伝承』1984年)

 船の舵が引っかかったから、「舵引きのパンタ」、舵引きの丘というわけだ。この一対の男女(兄と妹とされることが多い)が浅瀬に乗り上げて島に辿りつくという神話は、南の島々に見られるもので、特に珍しいものではない。アマミクとシニグクというのは琉球弧の創世神話のなかに登場する男女の二神で、日本神話のイザナギとイザナミと同じだと思えばいい。神話の中身にしても、島に訪れて最初に住んだ人たちが隆起珊瑚礁の島の浮上を目撃してたわけでもない。与論の出現を百之台にならって約十万年前と想定してみても、人類はまだ琉球弧には到達していない。

 でも、島のはじまりはハジピキパンタとするところ、神話の型とはいえ、地層の歴史にかなっていて面白い。いやひょっとしたら神話を編んだ島人たちはそのことが分かったのかもしれない。そう思うと胸が高鳴ってくる。

 この神話が面白いのはそれだけではなく、このあとに続く物語にあるのだが、それは後段で書くことができるだろう。

「島のはじまり 2」

島人のはじまり

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 島人のはじまり

 島はそもそも海中にあった珊瑚が海上を目指すように上へ上へ押し上げられたことで生まれた。そして、今ぼくたちが泳いでいる珊瑚礁ができたのはそれからずっとあとのことになる。

 珊瑚礁は海面下から形成を始める。ある研究では、与論の珊瑚礁の外海と隔てるリーフ部分は海面下3m付近から海面に向かって5,260年から3,230年前にかけて形成された(「琉球列島与論島の現成裾礁の地形発達」)。そして別の研究では与論島の現在の珊瑚礁が海の中から姿を現したのは3500年前とされている。これはお隣りの沖縄北部も同様だったようだ。3500年前という海面への到達時期は、石垣島と西表島の間の石西礁で約6500年前、久米島で約5500年前というから、与論は遅い。

 この、珊瑚礁成長ののんびりさ加減においても与論らしさを感じてしまう。自然に属することだから単純に擬人化してはいけれないけれどそう思えてしまう。いや、こののんびりさ加減こそは与論の島人の性質の土台になってきたものではないかと思ってしまうほどだ。

 珊瑚礁が形成されるということは人類にとって重要な出来事だった。それは、珊瑚礁ができることで砂州が形成され、打ち上げられた砂礫がちょっとした峰となって海岸平野をつくり、また同時に珊瑚礁が浜辺を安定させる。浅く穏やかな礁湖ができてそこに生息する海の生き物たちが人の資源になるからだ。

 与論も例外ではなかった。それというのも、与論で人類の痕跡が認められるのも現在までのところ三千数百年前を上限としているからだ(イチョーキ長浜貝塚)。珊瑚礁が海面に浮上したとされる頃、島には島人の形跡が残されている。この符合は、与論が珊瑚の島となって人類はここを居住地に選べるようになったと見なすことができる。他の島より遅く珊瑚礁ができ、それならばと、与論に上陸しいついた島人がいたと考えられてくる。

 けれどそれは、その前には与論には人はいなかったと断言できることにはならない。約2万年前の最終氷期には現在より海面の水準は120~140メートル低くかったから、与論の標高も当時は百メートルを上回っていたことになり、ということは、かつての陸地は海に没していることになる。与論でダイビングをすれば、洞窟が見つかるという話しも聞く。今は海中だけれど、そこに島人が住んだ痕跡が見つからないとは限らない。現に那覇市で見つかった「山下町第一洞人」の化石人骨は後期旧石器時代の三万二千年前の頃のものであり、奄美大島の土浜ヤーヤ遺跡も同じ後期旧石器時代のもので、3500年前に比べても恐ろしく古い。だから、珊瑚礁形成時に島人も住み始めたとするのは、少なくとも、と注意して置く必要はあるのだ。

「島のはじまり 3」

境界を溶かす珊瑚礁

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 境界を溶かす珊瑚礁

 珊瑚礁の海は死滅が危惧されている珊瑚が母胎となって、さまざまな生物を育む。ふだんでも、青さが採れ、ベラやハゼなどの魚を採れる。ニモが愛称のクマノミも場所を選べば海亀に出会うことも稀ではない。六月になれば、不思議な魚、アイゴの稚魚(与論ではイューガマ)が外海から大挙してやってくる。珊瑚礁大潮で潮が引いて珊瑚礁が陸地として浮上すると、ウニや貝も採れる。その場で食べるウニは鮨屋のウニではなく、命をいただいている敬虔な気持ちにさせてくれる。礁湖(礁池)は琉球弧の島ではイノーと呼ばれるが、イノーは別名、海の畑と呼ばれる所以だ。珊瑚礁が発達して人が住める環境が整ったというのはその通りだと思える。

 人類学の高宮広土は狩猟採集の生活が成り立つためにはそれに見合う土地の面積が必要だけれど、「沖縄のような島々で狩猟採集を糧として生きてきた人々がいたという事実は世界的に大変珍しいと思われる」(「沖縄タイムス」2012年2月13日)と書いているが、そうだとしたら、イノーの恵みがどれほど大きかったが分かる。

 驚くことに与論には数多の地名があるけれど、地名が存在するのは陸地だけではない。イノーにだって、地名が名づけられていて、所有者がいたこともあった。畑と呼ぶにふさわしいのはこうしたことでも言える。

 与論は珊瑚礁でできているというだけでなく、与論にとっては格別の意味を持っている。与論島の礁湖は琉球弧のなかでも「最も幅が広い」と言われていて、それだけ珊瑚礁の海を堪能できるしその恩恵に預かってきた。その上、砂浜は南岸の一部を除いて島全部を囲っている。与論は砂浜に恵まれた島だ。

 砂浜の向こうには珊瑚礁が控えている。白砂があるということは、海は遠浅に連なる。外海との距離が大きければ大きいほど、浅い穏やかな海が広がる。黒潮の流れる外海とは違う。珊瑚礁の湛える海は礁池や礁湖とよばれるように静かなときは池や湖のように穏やかなのだ。

 白の砂浜に立てば、穏やかにさざ波が足を洗ってくれる。波は透き通っていて砂浜をそのままに見せている。波がどこまで届くか目をやれば、波の線を描いてまた引いていく。次に寄せる波はまた違う波の線を描く。そこに陸地と海とを区別する境界線を引こうとしても、実はそれは定かではない。そのときどきの波の線が違うというだけではなく、引き潮のとき満ち潮のときでそれは違うからだ。

 ことは汀だけではない。珊瑚礁が海で浸っているとき、そこは海だけれど、大潮のときは陸になって、海の境界はリーフの外になる。浜辺とリーフと。二重の意味で、海と陸の境界はあいまいにされ、境界はその都度変わる幅を持つ。ここに明確な境界を引くことは、本当はできない。

 徳之島の民俗学者、松山光秀は珊瑚礁の地域の文化を「コーラル文化」と呼んだが、その文化圏の基本構造をます珊瑚礁について、三段階に分け、それを沖のコバルトブルー、干瀬のブラウン、砂浜のホワイトと色合いの変化として言い当てている(『徳之島の民族2』2004年)。与論ではこの三段階の色の変化が島を覆っている。いや、コバルトブルーは、それにとどまらず、陽の加減で淡い青や緑も鮮やかに放つ。

 与論は島の周りのほとんどがこの浜辺とリーフによって境界を振幅させる。汀に立つだけでも、寄せては返すさざ波の安らかな音色に耳を澄ませていると、心は次第に心身を離れていく。あれこれ悩んで囚われている身体を抜けだして、心ここに非ずになるだろう。自分が動物や植物だった頃に戻っていくような気がしてくる。それは懐かしい感覚だ。懐かしいから怖くない。与論ではほとんどどの海辺でもこうした放心を味わうことができるだろう。これが与論ならではの、あの感じ、与論島クオリアのひとつだ

「島のはじまり 4」

旅人(たびんちゅ)

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 旅人(たびんちゅ)

 島人同士の会話で使われる与論方言のことを島では与論言葉(ゆんぬふとぅば)と呼んでいる。与論言葉は琉球方言の言葉で、風を意味する「はでぃ」は琉球弧で広く使われているものもあれば、正確には知らないけれど、猫を意味する「みゃんか」など、与論ならではの言葉もある。

 与論言葉では旅人のことを「たびんちゅ」と言う。旅人にはふた様の意味があって、文字通りの旅人、観光客を指す場合と、大和から移住して与論に住んでいる人のことを指す場合がある。琉球弧でよく使われる大和人(やまとぅんちゅ)という言葉がないわけではなく、局面によっては使うのだけれど、日常的には大和人と呼ぶのを控えるように、「たびんちゅ」と言うのだ。

 「たびんちゅ」という言葉がいつ頃から使われているのか、定かではない。けれど、「旅」と現在の標準語を引用しているようにその使用は古いものではなく、近代以降のことではないかと思う。与論では大和人を使わずに旅人と言う。その使い方には与論らしい身ぶりがあるというのが、ぼくの見立てだ。

 旅人という呼称には、大和人という言葉が否応なく招く、大和vs島という対立の契機が抜き取られている。いや、正確には対立することのニュアンスで使われることもあるのだけれど、なるべくそれを招かないように旅人と呼んでいる気がするのだ。島人と旅人は対立関係にあるわけじゃない。そのことへの気遣いを、旅人という言葉は背負っているのではないだろうか。

 もちろん、そうは言っても、島人と区別するときに使われるものであれば、島には厳然と島の者とそうでない者とに区別する意識が働いているのであり、そのことで苦労している移住者の話も耳にしないわけではないし、目の当たりにすることもしばしばだ。それでも、その区別の垣根が他の島に比べると低いように感じられる。山のない島姿のように風通しがいい。

 与論が観光名所として東京を始めとする大和から島の規模に比べたら大量の観光客を迎えた時期があり、その時代を潜り抜けることができたのは、「大和vs島」という対立の構図が浮かび上がりにくかったからだと思う。そしてその歓迎の気持ちを担ったのが旅人(たびんちゅ)という言葉だった。もちろん、垣根が低かったから招くことができたのか、大挙して押し寄せてきたから苦肉の策として垣根を下げたのかは本当のところは分からない。けれど、多くの旅人たちと接するなかで、「大和vs島」という対立の垣根を下げてきた努力があったことは確かだと思う。

 ここにある身ぶり。既存にある大和人という言葉を使わずに、旅人という言葉を使う。そこにも、「大和vs島」という境界を消し去ろうとする与論ならではの振る舞いを感じるのだ。

「旅人 1」

与論献奉

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 苦肉の策ということでいえば、旅人(たびんちゅ)という言葉以上に、「与論献奉」がそうだと思う。与論といえば、と旅人に問えば「蒼い海」の次に挙げられるのが、あの酒の酌み交わしの儀礼である「与論献奉」だ。与論献奉は、まず親役の人が口上を述べて杯に注がれた黒糖焼酎を飲みほし、次は座に集っている隣りの人が同じく口上を述べて飲み干す。これを座の一堂が一巡するまで繰り返す。よせばいいのに場合によっては、次は隣りの人が親役になってまた同じことを繰り返す。かくして、酔いは一挙にまわり翌日、身動きできないほどの二日酔いになるのも惜しまずに延々と続く。それが人気もあれば悪名も高い与論献奉なのだ。

 悪名高いのになぜ、無くならないのだろう。やるにしても少しは節度をもってすべきだろう。ぼくもそう思う一人ではあるけれど、腑に落ちる理由が思い当たらないこともない。

 民俗学者の柳田國男は、明治になって酒の用途が増えてきたとして書いている。

 手短にいうならば知らぬ人に逢う機会、それも晴れがましい心構えをもって、近付きになるべき場合が急に増加して、得たり賢しとこの古くからの方式を利用し始めたのである。明治の社交は気の置ける異郷人と、明日からすぐにもともに働かなければならぬような社交であった。
 常は無口で思うことも言えぬ者、わずかな外部からの衝動にも堪えぬ者が、抑えられた自己を表現する手段として、酒徳を礼賛する例さえあったのである。
 酒は飲むとも飲まるるなということを、今でも秀句のごとく心得て言う人があるが、実際は人を飲むのがすなわち酒の力であった。客を酔い倒れにしえなかった宴会は、決して成功とは言わなかったのである。(『明治大正史世相篇』柳田國男、1930年執筆)

 それまで藩内の人と藩に流通する言葉で話し、仕事をすればよかったのに、それができなくなったのが、明治という近代化の意味だった。「異郷人と、明日からすぐにもともに働かなければなら」ないとき、日本人はどうしたか。「客を酔い倒れ」にするしかなかった。酒の酩酊のなかで打ち解け、気心を通じ合わせ、明日から共に仕事ができるようにしたというのだ。

 こう補助線を引いてみると、与論献奉の意味も自ずと知れてくる。島人は「常は無口で思うことも言えぬ者、わずかな外部からの衝動にも堪えぬ者」というより、極度の人見知りだ。打ち解けるには共に過ごす時間が要る。けれど、観光に訪れた旅人はその時間をふんだんに持っているとは限らない。むしろ、船旅の時間の方が長いにもかかわらず与論を訪れ僅かな時間を島を楽しむことに費やすのが、飛行機以前の与論旅だった。しかも、相手は旅の恥はかき捨てと思いかねない若者たち。

 この容易ならざる事態に人見知りをもってする島人はどのように対処したか。明治人と同様に、「客を酔い倒れ」にするほど飲むことだった。二日酔いになっては翌日の観光に差しさわりがあるだろうと冷静には考えられたとしても、やはり酔い倒れにしてこそ「成功」なのだった。そうであればこそ、翌日から仲良くできるからである。

 幸か不幸か島人は酒に強い人が多い。かくて、与論献奉は極度な人見知りが観光を生業として成り立たせるために編み出した苦肉の策であるというのがここでの見立てである。黒糖焼酎の力を借りて酩酊し、島人と旅人の垣根をほぐして溶かし、あいまみえる融合のひと時を持つ。与論らしい、これも身ぶりのひとつに数えよう。

「旅人 2」

 

旅人 鴨志田穣

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 「家内」に「どこでもいいから早く出てゆき」と言われ、「売り言葉に買い言葉」、「わかったよ、よそでガブガブ飲んで来てやるよ」と家出したはいいが、行く当てとてない。ひょんなことから、西の端っこまで行ってやろうと思い決めた鴨志田は与論島に立ち寄る。この、男ならではかもしれない退路につぐ退路、落ちることに歯止めの効かない、つげ義春にも似た自滅行の行く先に与論島も選ばれた。

 奄美本島へ着岸し、車のスピードを上げ、空港へと向う。
 与論島への最終便に乗る事が出来た。
 与論に観光客は全くと言っていいほどいない。
 日本の端は沖縄に変ってしまったからだった。
 どうしよう。鹿児島の先っぽまでは来てしまった。
 それにしても寂しい。
 メシもことごとくまずい。(鴨志田穣『日本はじっこ自滅旅』2005年)

 鴨志田が島に立ち寄ったのは、2003年ごろだと思われるからそう昔のことではない。島の名誉のために言っておけば、「メシもことごとくまずい」ことはない。最近、ずいぶん美味しい店が増えたと思う。

 茶花では、郵便局近くの「ふらいぱん」、イタリアンの「アマン」にフランス料理の「地中海」、美味しい珈琲を淹れてくれる「Cafeチカ」に「海カフェ」。ベトナム珈琲が飲める「みじらしゃん」、映画『めがね』の舞台になったビレッジの食堂。プリシア・リゾートの「ピキ」、空港近くでもずくそばを出してくれる「蒼い珊瑚礁」、島の北部の「たら」。昔に比べたら素直に美味しいと思える店が増えたのだ。

 まぁ、けれど、鴨志田の「メシもことごとくまずい」、この言い切りは好きだ。
 鴨志田は居酒屋で「おやじ」に絡まれるが、絡まれるだけでなく、「与論は日本ですか、それとも琉球ですか」と本質的な問いをぶつけている。

 居酒屋の壁に三匹、やもりがテロチロと虫を捕らえようとうごめいている。 「チチチッ」  と鳴いた。  声を聞いていると日本なのか、東南アジアのどこかにいるのか判然としなくなってくる。  おやじに聞いた。 「与論は日本ですか、それとも琉球ですか」  しばらく宙を見つめるおやじ。 「夏の甲子園は絶対沖縄の高校を応援しとるな」  どうやら無辺際まで来てしまったようだ。  もっと西まで行くしかないのだな。(同前掲)

 「夏の甲子園は絶対沖縄の高校を応援しとるな」という「おやじ」の呟きは与論心情をよく言い当てていると思う。このひと言を呼び寄せただけでも、与論に立ち寄ったと言える台詞だ。「チチチッ」とヤモリの鳴き声も捉えて聞くべき音も逃していない。

 この、「夏の甲子園は絶対沖縄の高校を応援しとるな」という与論心情は、鴨志田が奄美大島で聞いた台詞と対比させると、その背景がよく浮かび上がってくる。

 客が誰もいなくなった店で、三人でウィスキーのロックを飲み乾した。
 「じゃあ、もう一つだけ質問。自分達は鹿児島人ですか、それとも沖縄人でしょうか」
 「奄美人です」
 と母親はきっぱりと答えた。
 「でも沖縄の人の心は判りやすい」
 とも言った。(同前掲)

 奄美大島では、「鹿児島人ですか、それとも沖縄人でしょうか」と問い、与論島では「日本ですか、それとも琉球ですか」と問う、この問い方のセンスには感心するのだが、ぼくが与論心情と言いたいのは、「鹿児島人ですか、それとも沖縄人でしょうか」と聞かれ、大島の「母親」のように、「奄美人です」のように、「与論人」と言うよりは、「どちらかといえば沖縄人でしょう」と答えるだろうことにある。もちろん、「与論人(ゆんぬんちゅ)」という強固な確信は持っているのだが、「鹿児島」、「沖縄」と同列に並べたときに、そこに「与論」を対置するのにためらいが過ぎる。それだけの大きさ多さはなく、主張すできほどでもないという気持ちに傾くのが与論だろうと思う。

「旅人 3」

旅人 唐牛健太郎

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 1960年安保を主導した全学連委員長の唐牛健太郎が与論島にいたことがある。1969年の2月から7月までのことだ。唐牛はなぜ与論島を訪れたのか。

 唐牛を全学連委員長に抜擢し自身も全学連の書記長として60年安保を闘った島成郎は、自身を含めた安保以
後の困難について書いている。

 ところがこの実社会での再出発という最初のとばぐちで、唐牛は生涯ついてまわった「六〇安保闘争の全学連委員長」という称号の負の力をまず味わわねばならなかった。  唐牛ならずとも、若き日革命を論じた左翼運動に走ったものならば誰でも、社会の報復の厳しさに一度は身を晒さなければならないだろう。(島成郎『ブント私史―青春の凝縮された生の日々 ともに闘った友人たちへ』 2010年)

 唐牛ならではの辛さについても、島は突っ込んで書いている。

 彼が真剣に心を痛めたのは「たかが二十歳の若造が東京に出てきて、一年そこそこの間、酒を飲み飲みデモをして暴れ何度か豚箱に入った位のこと」が何時の間にか「戦後最大の政治闘争の主役全学連委員長」というシンボルとなって一人歩きし自分にまとわりついてしまっているという事態であり、あの運動と組織の象徴を担わされていることを初めて自覚したことにあった。  また「安保も全学連もブントも、今のあっしにゃ関わりのないことでござんす」といってしまうには、まだあの体験はあまりにも生々しく、そして彼も若かった。(島成郎『ブント私史』 2010年)

 「全学連委員長」という称号が「負の力」を持つことが今では想像もつかないかもしれないが、日本の組織は今でも非寛容であることには本質的に変わりないと思う。それは、個人を襲い、ひとり辛酸をなめることになる。唐牛とて例外ではなかった。

 そして齢三十をこえ自分の生を見つめて一つの跳躍を考えていたのであろう。一九六九年、彼は私にも一言もなく忽然と東京から姿を消したのだった。(島成郎『ブント私史』 2010年)

 東京から姿を消した唐牛が向かったのが与論島だった。これを推して考えれば、唐牛は彼を知る人のいない場所に行きたかった。そしてひっそりとしていたかったに違いない。そこで、沖縄が復帰する前の最果ての地として与論は選ばれた。しかも北海道出身の唐牛にとって国内で行ける範囲で故郷から最も遠い場所という意味でも果てだった。そうではないだろうか。だが、数年後に沖縄復帰を控える与論島は日本の社会に組み込まれつつあり、最果ての地を脱色しはじめていた。唐牛は与論でも旅人によって発見されてしまい、数ヶ月で与論を後にしなければならなかったのだ。

 唐牛は与論で土方をしていたという以上の消息をぼくは知らない。けれど、来た当初なのか、赤崎近辺の海辺の岩場を、唐牛が住んだことがある場所として案内されたことがある。岩場のほら穴のなかは白砂が敷き詰められて広さもあり潜伏という言葉が似合う。あるいは与論に最初に来た島人はここを拠点にしたかもしれないと思わせた。ほら穴は真っ暗なのではなく、陽の加減によって小さな穴から陽射しが差しこみ、それが白砂をほのかに照らしていた。唐牛もこの光を見ただろうか。

 ただ、今になって分かるのは唐牛は単独行ではなく、奥方を伴っていた。そう考えると、ほら穴生活は長くはできなかっただろうし、ひょっとしたら唐牛らしい伝説なのかもしれなかった。

 島の唐牛健太郎像が深い友情に支えられながら、その記述が客観的なものに終始するのに比べて、妻の島ひろ子の描く唐牛は肉感的でこちらの方が素顔の唐牛を描写してくれている。

 一九五八年頃、唐牛氏が上京の際我が家に来てから、上京の度に家に顔を出すようになった。この頃、島は留守の時が多く、自ずと唐牛氏と接する機会は私の方が多かったこともあり、また最初から私とは波長があって、よlく話しをした。会話がめちゃくちゃ面白くて、未だにあれだけ豪快でいて繊細、知的でいてハチャメチャな会話をするでたらめな男には出会ったことがない。(島成郎『ブント私史』 2010年)

 「豪快でいて繊細、知的でいてハチャメチャな会話をするでたらめな男」は、晩年、徳田虎雄を支援して奄美にふたたび縁を持った。しかしその最初の機縁は与論島にあり、与論は、政治運動とその余波に苦しんだ男を束の間でも許容して受け容れたのだった。酒好きだった唐牛は与論献奉をしたろうか。あの星空をどんな気持ちで眺めたろうか。
 


旅人 森瑤子

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 鴨志田のように自滅旅の寄港地としてではなく、唐牛の身を隠すような滞在でもなく、与論に別荘地として居を構えた旅人もいる。作家の森瑤子だ。記録によれば、森は1987年に与論島を訪れ、その翌年には島に別荘地を建てている。それどころか、探訪しただろう島と山田実の『与論島の生活と伝承』をもとに、別荘を建てた年には与論を舞台にしたファンタジー『アイランド』も書いている。

 思い立ったが吉日とばかりの即決と行動は、森の気性を問わず語りに伝えるが、彼女は与論の何に魅入られたのだろう。それは『アイランド』のなかにも垣間見えるかもしれない。

 しかし、沖縄ではない。沖縄ではないが、その近辺の島だ。彼の脳裏にエメラルドグリーンの珊瑚礁が浮かび、眼に痛いような純白の砂浜が弓なりの曲線を描いて横たわるのが一瞬ありありと見えた。(森瑤子『アイランド』1988年)

 『アイランド』が、与論に残る羽衣伝説に素材を採ったように、島の伝承は作家の想像力を刺激しただろうが、森が別荘を構えたのは、与論の珊瑚礁美、それが最初の一撃だったのではないかと思う。「エメラルドグリーンの珊瑚礁が浮かび、眼に痛いような純白の砂浜」という色の演じる美しい光景は着陸寸前から森の心を捉えたのではなかったか。

 森が与論をどう評していたのか、ぼくは詳しくない。ただ、『アイランド』の解説を担当した女優、浜美枝の文章はそれを代弁しているようにも読める。

 ある日、私は島にいた。そこは与論島の森瑤子さんの別荘だった。彼女とはもちろん東京で会っているのだが、出会いの記憶はどうしても与論で始まる。私はその夜、別荘からそっと抜け出して、瑤子さんのプライベートビーチに向かった。家から小道をぬけていくと月に照らされた美しい砂とヒタヒタと穏やかに寄せる波の可愛いビーチがある。昼間なら遠くを行く船から見えもしようが、夜の海に人の視線を気づかう必要はない。
 私はTシャツもショートパンツも脱ぎ捨ててそのビロードのような海に身をまかせた。裸の皮膚に海水はなめらかにまとわりつき、その心地よさは水着をつけての戯れなどに比べるべくもない。ゆるやかに波が私を包み、その波に私も律動し、寄せては返しするうちに、私はあたかもこの海と一夜を過ごしてしまいそうな誘惑にかられた。(同前掲)

 浜の解説は、与論の愉楽をよく捉えている。あの海を前にすれば人は裸になりたくなる。そうしてどうするのか。一夜を過ごすというのは、海と一体化して自然と溶けあうということだ。あの愉楽を森も知っていたに違いない。

けれど森は与論と一夜を過ごすのではなく、永遠の伴を選択した。彼女は与論に別荘を建てた五年後の93年に没するが、島に墓を作ることを決め、今も与論島に眠っている。

与論島は鳥島と交換されたか?

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 伊波普猷が薩摩への割譲の範囲について、はじめ与論島は入っていなかったと書いた文章を読んで以来、折に触れては思いだし気になってきた。2009年の400年イベントでは、歴史家に尋ねることもしてみたが、不知という回答しか得られなかった。

 その文章は昭和五年に記されて、こうある。

 翻つて奄美大島諸島はどうかと見ると、慶長役後間も無く、母国から引離された、大島、徳之島、沖永良部、喜界の四島(最初鳥島は其中に這入つてゐたが、支那に硫黄を貢する必要上、再び琉球の管下に入れられて、その代りに与論島が四島と運命を共にすることになつた)は薩摩の直轄にされて、爾来三百年間極度に搾取されるやうになつた(後略)。(伊波普猷「南島人の精神分析」1930年)

 伊波の書いたものを辿ってみると、これに触れたものは、その四年前にもあるのに気づく。

(前略)そこで如才のない島津氏は、慶長十五年、十四人の御傘入奉行と百六十人の官吏を琉球に派遣して、琉球諸島の検知をさせ、同十七年に、その報告書を提出させた。その結果、大島・徳之島・鬼界島・沖永良部島の四島をその直轄とし、其の余を琉球王国の所領とした。(伊波普猷「孤島苦の琉球史」1926年)

 伊波は、「南島人の精神分析」を序文にした「南島史考」のなかで、参考書を挙げている。「孤島苦の琉球史」と変わらない認識を、その四年後の「南島人の精神分析」に書いたのだから、これらの参考書は彼の認識のなかで生きていたことになる。そこに挙げられているなかで該当しそうな「南島沿革史論」、「喜安日記」、「島津国史」、「南島紀事外篇」、「琉球見聞録」にも当たってみたが、上記の根拠になるような記述を見つけることはできなかった。後は、伊波が古仁屋で見つけたとしている「中山並大島諸島責取日記」が未見で残っている。

 ところで、慶長十六年に発給された知行目録では、「悪鬼納、伊江、久米島、伊勢那島、計羅摩、与部屋、宮古島、登那幾、八重山島」が、王国の範囲とされているから、伊波普猷は「孤島苦の琉球史」では誤認していることになる。

 しかし、誤認として済ませたくない引っかかりは残る。1609年6月に鹿児島に入り、1611年9月に山川港を出るまでの王、尚寧は、割譲を巡って薩摩を交渉をしただろう。

 薩摩藩は鹿児島で尚寧王らに、この年の中国明への進貢船を行かせるようにすることを促し、尚寧王は、同道の王弟尚宏、池城親方(毛鳳儀)を琉球へ帰国させた。その際さまざまなやり取りがあったと考えられる。(弓削政己「薩摩藩琉球侵攻時の琉球尚寧王の領土意識について」『江戸期の奄美諸島―「琉球」から「薩摩」へ―』

 この交渉の過程で、「鳥島」と「与論島」の取り引きがあったとしても不思議ではないし、それにこの話題にはリアリティがある。
 
 弓削は敗北直後で鹿児島に行く前の、尚寧の領土認識について次のように指摘している。

 (前略)ここで、指摘したいのは、尚寧王の認識として、島津氏への割譲領土を「北隅の葉壁一島」と伊平屋島を琉球領土の「北隅」としていて、奄美諸島について触れていないのとである。これは、尚寧王の琉球国領土認識が、伊平屋島という北隅までという事を示していると見てよいだろう。(弓削政己「薩摩藩琉球侵攻時の琉球尚寧王の領土意識について」)

 この通りなのかもしれないが、ここでもあわいに位置する者はわずかに動揺を覚える。琉球を「北隅」が伊平屋島だとする認識は、ほぼ同緯度にある与論島が圏外にあることを直接には意味しないからである。

 このテーマも、我ながらなぜ執着するのか、うまく説明できないのだが、伊波普猷が何を根拠に書いたのか、探求していきたいと思う。沖縄を訪ねる機会が訪れれば、その際に史料を漁りたい。

「ゆいまーる琉球の自治 in 与論島」

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 急速に色んなことが決まり、内心ほっとしています。台風後の疲れを癒すという余裕もない時に、島の人には申し訳ない気もするのですが、束の間、日常を離れた時間を提供できればと思っています。

 ぼくの発表の五つの謎、というのは次のことです。

1.最初の「ゆんぬんちゅ」は誰?
2.「ゆんぬ」はどういう意味?
3.「ゆんぬんちゅ」はどんな人たち?
4.なぜ、「与論」というの?
5.「かいふた」はどういう意味?

◇◆◇

「ゆいまーる琉球の自治 in 与論島」(11月2日土曜)
場所:中央公民館

10:00-12:00
主催者挨拶:松島泰勝
発表1:「長崎県口之津、沖縄県西表島(炭鉱)に移住した与論島民」(前利潔)

13:00-16:00
挨拶:藤原良雄
発表2:「ゆんぬの冒険-五つの謎に迫る-」(喜山荘一)
発表3:「先祖のくらしをふりかえる」(竹内浩)

Flyer3


ただいまフバマ

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 島に着いて作業を済ませて、いつものようにフバマに帰島の挨拶をした。

 夕闇迫る時刻。子供の時分はこのくらいの暗がりになるまでは遊んで、慌てて帰った。暗闇になってしまうと、帰り道の森の中はムヌたちの世界に早変わりするからだ。いや、そんな気がして怖かった。

 風は強く波はいつもより勢いがあって、潮の音を響かせていた。

 台風のダメージで廃墟のようなホテルからは照明もなく、久しぶりにここで味わう純粋な闇の訪れだ。浜も海も雲も蒼に染まる怪しいひと時。

 台風で緑を取られた浜の光景が、隆起したばかりの島の姿に戻ろうとしているかのように見えた。

7


王舅とは誰か

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 1405年から1416年に、与論城を築いたとされる伝承の王舅。築断念は北山の滅亡のためとされるが、断念の時期は1422年とも言われ、定まっていない。また、王舅は怕尼芝の三男とも、珉の子息とも言われ、これも定まっていない。王舅とは誰なのか。

 しかし、そもそも考えると、「王舅」とは、続柄名か職位名であり、名乗りの固有性に乏しい。続柄であれば、怕尼芝あるいは珉の妻の父であり、職位であれば、怕尼芝か珉が、明に使者として送った人物ということになる。その由緒を背負って与論に来たということだ。

 試みに、『明実録』から北山の朝貢記録を取り出すと、下記のようになる。


回、年月日、王名、使者、関係、貢ぎ物、賜り物

1.1383年、12月15日、怕尼芝、模結習、臣、方物、衣一襲
2.1384年、01月01日、怕尼芝、__、方物、文綺・衣服
3.1385年、01月05日、怕尼芝、__、__、駝紐鍍金銀印
4.1388年、01月13日、怕尼芝、__、臣、方物、__
5.1388年、09月16日、怕尼芝、甚模致、馬、鈔
6.1395年、01月01日、珉、__、方物・馬匹、__
7.1396年、01月10日、攀安知、善佳古耶、臣、馬・方物、鈔
8.1396年、11月24日、攀安知、善佳古耶、臣、馬・硫黄、お衣巾・靴韈
9.1397年、02月03日、攀安知、恰宜斯耶、__、馬・硫黄、__
10.1397年、12月15日、攀安知、恰宜斯耶、__、馬・硫黄、__
11.1398年、01月08日、攀安知、__、__、馬、__
12.1403年、03月09日、攀安知、善佳古耶、臣、方物、鈔・襲衣・文綺
13.1404年、03月18日、攀安知、亜都結制、__、方物、銭・鈔・文綺・綵
14.1405年、04月01日、攀安知、赤佳結制、__、馬・方物、鈔錠・襲衣・綵幣表裏
15.1415年、06月06日、攀安知、__、__、__、鈔幣

( 『「明実録」の琉球史料』2001年より)


 これを見ると、怕尼芝の使者、王舅として、「模結習」と「甚模致」が挙げられ、「模結習」は臣下となっている。しかし、1405年の与論への来島という時期を踏まえると、攀安知の使者である「善佳古耶」、「恰宜斯耶」なども可能性の範囲に入る。

 怕尼芝の三男にして、明への使者の役を任じた者としては、記録に載っていないか、関係の記されていない「甚模致」が可能性を持つが、どちらにしても確かなことは何も言えない。

 この虚ろな名の世の主は、与論城の実在と好対照をなして、与論の歴史のなかに名をとどめている。

与論の浜、ほぼ全図 ver.03

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 盛窪さんのおかげで、島の浜を東西南北、駆け回って、島の名を追加し、位置を確かめることができた。浜はなく、地名であるものには括弧をつけたが、これで浜の数は65になっている。島のぱーぱーやうじゃに聞き取りをして、かなり、信頼性を高めることができたと思う。今後も微修正を続けていきたい。(2013/11/04)


◆◆◆

 盛窪さんのおかげで、ウァーチの西に、イーウァーチ、ムイバマ、ウチシ、タチビ、アーサキの北にナーダトゥ、サダリを加えることができた。まだ、位置が曖昧なところもあるけれど、二年ぶりに更新しておく。これで全部で59だ。

◆◆◆

 4年前、2日かけてだったろうか、与論の砂浜を全て見尽くそうと自転車で走りまわったことがある(「与論砂浜三十景」)。まだ陽射しは強く、南岸の、ただならない気配を放つダルバマの斜面では、もう一歩も歩けないとしばし倒れこんで荒い息を吐きながら、怖くなったのを覚えている。何が哀しくてそんなことをするのかと聞かれても自分でも分からない。それをやらないでは気が済まないとなると、どうにも鎮めようがない。鎮まりたまえと言ってみたところでアシタカのように無力だ。

 そのときは、計34の浜を巡っている。

 今回、図書館の方の親切で島の資料を漁るうちに、与論の海岸沿いの地名を整理した表に出くわした。で、これに出会いたかったとばかりに浜をマッピングしてみた。数えると50になるので、4年前は約7割をカバーしたことになる。まだまだだったんだね。浜の名前は地元の言葉に依る。だから、クリスタルなんとか等は、ここでは退場願った。また、半可通のぼくのことなので、場所が曖昧で厳密には間違っているものもあるだろう。それは、ご存知の方が指摘してくれるとありがたい。特に、南岸のメーバルとワタンジの間の浜は、「ユバマ」が消され、訂正のように書かれた「ウパラ」も消されているので不明のままにしている。

 この小さな島がこれだけの浜の地名を持っているのは驚くべきことだ。それだけ、浜が生活に密着していたということであり、また与論が砂浜の豊かな島であることも告げている。自ずとぼくはここで、「ゆんぬ」の由来がユナ系の「砂」の意味だという自分の主張の根拠に、これを加えようとしているわけだ。(2011/11/27)



より大きな地図で 与論島のほぼ全ての浜辺を表示


(北から反時計回り)

ウァーチ(宇勝)
イーウァーチ
ナードゥンダ
ジャリバマ
パマガマ
イチャジキパマ
シューダキ
ナホーバッタイ
シナパ(品覇)
アイギ
フバマ
ウドゥヌスー
アガサ
ミシヌパマ
ウシオオシバマ
イチョーキ
ダイヌパマ
イーガマ
イノーガマ
ハタンジ
ハニブ(兼母)
フバマ
ウプラ
トゥイシ
ナーバマ
ホータイ
シーナ
トゥムイ
ウキナンブ
マンマ
ナガサキ
ムリサンバマ
ハキビナ
チャドゥマイ(茶泊)
(オランダ・イョー)
(ナミンブ)
ウスディ
ウヮーヌマキ
ヘーシ
シゴー
ハミゴー
ピャーシ
ダリバマ
ウジジ
ワリバマ
メーバマ(前浜)
トゥイグチ
ウプラ
イシバマ
ハジラバマ
ワタンジ
ウフドゥ
タティダラ
シマミジ
アーサキ
ヤマトゥガマ
ナウダワトー
サダリ
ムティバマ
シーラ
トゥーシ
パマゴー
ナーガニク
ウプガニク(大金久)
ユリガハマ
プナグラ(船倉)
ナガピジャ
ワリバマ
フバマ
ミナタ(皆田)
イシバマ
クルパナ
ムイヌシー?
ティラダキ
トゥマイ
ナーバマ
ユバマ
タチビ
ウチシ
ムイバマ
ヤマトゥガマ

※1.12/27 喜山康三さんの指摘でムディバマを追加。合計51。
※2.2013/09/21 盛窪さんの情報で、イーウァーチ、ムイバマ、ウチシ、タチビ、ナーダトゥ、サダリを追加。
※3.2013/11/04 追加と位置の修正

与論の砂浜 ver.4

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 足かけ6年、島の浜名と場所をほぼ網羅することができた。浜名数は77になる。トゥーシ、シューダキ、ウシオオシバマ、ハタンジ、イノーガマ、ピャーシなど、その地に住む海人でなければ分からなくなっているものを、古老に聞いてやっと判明した浜名が印象に残る。

 浜名は表音を重視し、当てた漢字が明瞭な場所は、括弧で漢字を記した。その後につけられた観光名は、書いていない。それをすると白々しい気持ちが過ぎってしまうからだ。この地図の作成には、聞き取りに応じてくれた古老の他、竹盛窪さんに特に感謝したい。ひとりでやっていたら、あと何年もかかったか、不明な点を残したと思う。


◇◆◇

 完璧とは言えないから、地名や位置の誤記があれば修正したいので、ご指摘をお願いします。

 地図は、下記リンクからも辿れます。

 「与論の砂浜」 


より大きな地図で 与論島のほぼ全ての浜辺を表示


(北から反時計回り)

ウァーチ(宇勝)
イーウァーチ
ナードゥンダ
ジャリバマ
パマガマ
イチャジキパマ
シューダキ
ナホーバッタイ
シナパ(品覇)
アイギ
フバマ
ウドゥヌスー
アガサ
ミシヌパマ
ウシオオシバマ
イチョーキ
ダイヌパナ
イノーガマ
ハタンジ
ハニブ(兼母)
フバマ
ウプラ
トゥイシ
ナーバマ
ホータイ
シーナ
トゥムイ
ウキナンブ
マンマ
ナガサキ
ムリサンバマ
ハキビナ
チャドゥマイ(茶泊)
(オランダ・イョー)
(ナミンブ)
ウスディ
ウヮーヌマキ
ヘーシ
シゴー
ハミゴー
ピャーシ
ダリバマ
ウジジ
ワリバマ
メーバマ(前浜)
トゥイグチ
ウプラ
イシバマ
ハジラバマ
ワタンジ
ウフドゥ
タティダラ
シマミジ
アーサキ
ヤマトゥガマ
ナウダワトー
サダリ
ムティバマ
シーラ
トゥーシ
パマゴー
ナーガニク
ウプガニク(大金久)
ユリガハマ
プナグラ(船倉)
ナガピジャ
ワリバマ
フバマ
ミナタ(皆田)
イシバマ
クルパナ
ムイヌシー(ムンヌシー、ムヌヌシー)
ティラダキ
トゥマイ
ナーバマ
ユバマ
タッチビ(タチビ)
ウチシ
ムイバマ
ヤマトゥガマ


与論島一週間

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 与論に一週間もいた。「も」というのは強調したくなるポイントで、八日を超えて島に滞在したのは学生の頃以来だから、25年ぶり以上になる。格別だった。

 その割に、盛窪さんの案内の浜巡りに時間を費やしたので、お会いした方は多くなく、それぞれに話せた時間も長くなかった。そこはいささか心残りで、申し訳なさもあるのだが、他日を期したい。これからもっと島に帰る頻度を増やし島に関わることも増やしたいと思う。どこまで果たせるか、分からないが、そのなかで不義理を解消したいというのが、今の心づもりです。

 二年続いた台風のダメージは大きく、島は色をなくしていた。樹々の緑と花の色が消え、赤茶けた裸の大地は、痛々しかった。台風は人工物を破壊するが、自然も破壊していくのだ。けれども、だ。島の人は途方にも暮れているだろうし、疲労困憊でもあるだろう。それなのに、その表情からはその気配を感じることはなかった。あくまで明るい、穏やかな表情を返してくれるだけだった。ほんとはこれはとても驚くべきことなのだと思う。

 どうにかなることなら怒りもしよう。悲嘆にも暮れよう。けれど、どうにもならないことはある。それもしばしばある。それを受けることが避けられないのであれば、黙って受け取り、あとは淡々と取り戻すことを続けるしかない。

 亜熱帯の自然とイノーは、この小さな島に人々が住むゆとりを与えてきたが、自然の猛威に対して被害が大きくなりやすいある虚弱性もあわせ持ってきた。その両端を与件として受け止めてきた島人の、これは島民性なのではないだろうか。驚きとともに敬意を覚える。

 ただ、「どうにもならない」は習い性にもなって、すべからくどうにもならないと思いこみやすい。どうにかなることはどうにかしたほうがいいに決まっているのだから、そこが島民性の美質とは別に課題になるのだと思う。もちろん、自分のこととして、そう思う。

 帰省のきっかけになった「ゆいまーる琉球の自治」で話した「ゆんぬの冒険-五つの謎に迫る-」は、研究者ではないけれど、今まで全く語られたことのないことを口にしたつもりだ。それは、与論の歴史を緻密にするというより、その手前で、与論の歴史をつくることに眼目があった。少なくとも意気込みとしてはそうだった。

 それをきちんと届けることができたか、心もとないが、これからも考察を続け、表現の形を工夫しながら、歴史づくりをやっていきたいと思う。砂漠で待つ雨のように、ずっとずっと渇望してきたことだから。

 浜名調べも段落をつけることができた。場所も名前も不確かになっている時は、そこで海生活をしてきた島人に聞くしかない。聞くべき人への出会い方から話しの引き出し方まで、盛窪さんのインタビュー技術は一級品で、敬服する思いだった。

 ありがとう、みなさん。とーとぅがなし、与論島。

王舅とは誰か 2

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 「王舅」という名に違和感を覚えて、これは王の舅という意味か、朝貢使者の役職名ではないかと考えたが(「「王舅」とは誰か」)、野口才蔵の『南島与論島の文化』には、林清国、麓桓茂から聴き取ったとして、こんな記述があった。

 この部落(城-引用者注)は、北山の怕尼芝王の三男王舅が渡島して、樋口の高所に築城をなし、与論島の豪族の娘と結婚し、なお、王舅と祖先を同じうする又吉大主の子、花城真三郎が王舅より、四・五代後れて渡島して与論島主になり、その子孫と王舅の子孫との婚姻関係によって栄え広がった部落住民とみなされる。王舅が与論島に渡島した年代は、紀元一四〇五年(巴志中山を亡ぼす)から、紀元一四一六年(巴志北山をほろぼす)の間と推定される。なぜ渡島しなければならなかったか。巴志の勢力が強くなり、北山においても財力を高めるためには、大島あたりをおさえて、財力の補強にのりだしたからである。北山怕尼芝王の長男珉王は、王の後を継ぎ、二男真松千代は、沖永良部島に、三男王舅は、おくれて与論に渡島したのである。おくれた理由は、中国へ派遣された為であった。中国への正史には、王族でなければならなかった。その正史には「王舅」という役をつけたのである。それで、その役名をとって王舅といっているのである。(p.87、野口才蔵『南島与論島の文化』1976年)

 やはり、「王舅」は中国への使者の役職名であることが分かる。というか、そう認識されていたわけだ。その王舅の渡島時期は、1405年から1416年の間。この推定は、いずれも尚巴志の動向からなされている。そこで、与論城築城の終点も、北山滅亡が1422年とされることもあるから、1416年説と1422年説が生まれることになる。

 ここで気になるのは、王舅の渡島が「おくれて」とされていることだ。これは推定のなかからは生まれない発言で、「おくれて」ということだけ、伝承されていた形跡を伺わせる。ちなみに、珉の統治時代は、1393年から1395年または1400年とされ、真松千代は1400年頃には沖永良部島を統治していたとされている。一方、沖永良部島では、真松千代は、珉ではなく、攀安知の第二子とされることがある。

 これを元にすれば、その使者の名とは、「おくれて」に力点を置けば、1405年近くに朝貢使者を務めている「善佳古耶」か「亜都結制」が浮上してくる。「善佳古耶」と王との関係は「臣」とあり、身内の記述はない。また、「亜都結制」には王との関係を示す記述はなく、1405年に使者となった「赤佳結制」と同一人物である可能性もある。

 また、年齢からみれば、怕尼芝、珉、攀安知のいずれの子息であってもおかしくなく、むしろ、怕尼芝の三男とするには無理があるかもしれない。

 結局、たしからしさを残しながら言えば、王舅は、遅くとも北山滅亡前の15世紀初頭に与論に訪れており、その人物は、中国使者の役割を果たしたことがある者で、「善佳古耶」あるいは「亜都結制」である可能性がある、ということくらいだ。

 林、麓、そして彼らから聞き取りを行った野口は、王舅が役職名である認識を持ちながら、その名を問うことはなかった。これは時代的な制約だろうか。また、王舅について花城と血縁関係にあるとしているが、これについては別で触れたい。

 

フサトゥユンの視線

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 菊千代の大作、『与論方言辞典』は、民俗辞典としても読めるところが面白い。

 たとえば、「フサトゥユン」という言葉がある。フサト言葉、フサトの人々の言い方、というほどの意味だ。

フサトゥユン

朝戸、城、立長、叶、那間地域などの話し方やアクセント。フナグ(女)がヲゥナグなどと用いる。(p.495) 

 竹内浩は、『辺戸岬から与論島が見える<改訂版>』で、与論の言葉は、麦屋、朝戸、茶花の三つに区分されると書いているが、「フサトゥユン」は、麦屋から見た場合、朝戸の言葉を何と呼んだかを教えている。

 まず、「フサトゥユン」の対象が、「朝戸、城、立長、叶、那間地域」とされていて、茶花は含まれていないことから、「フサトゥユン」は、竹内が「麦屋、朝戸、茶花」と分けたように俯瞰的に島を見たものではなく、麦屋からの見え方を色濃く持つ言葉だと言える。そして、同様に「茶花」を含まないことは、ある古さのある言葉だということも示している。

 ここで、「フサトゥユン」の古さについて、アプローチしてみる。「フサトゥ」とは「プサトゥ」のことだと思われる。麦屋に対するに、竹内のように「朝戸」で象徴させたのではなく、「プサトゥ」で象徴させたということだ。集落の形成順を追えば、朝戸系については、プカナ、ニッチェー、サトゥヌシがあり、ついで、プサトゥ、ユントゥクになるから、「プサトゥ」は朝戸系集団の後期に位置している。

 麦屋の人たちから見た時、与論に新しい人々がやってきた。その人々は、麦屋とはいくぶん異なる言葉を形成していった。それが、プカナ、ニッチェー、サトゥヌシ、そしてプサトゥ、ユントゥクの段階まで来た時、麦屋にとって、質量ともに異なることに言葉を与える閾値を超えたということだ。すると、「フサトゥユン」という言葉は、14世紀頃ということになるのではないだろうか。

 そしてもうひとつ思わせることがある。それは、異集団の言葉を名指した時、プカナユン、ニッチェーユン、サトゥヌシユンにならずに、「フサトゥユン」になったということは、その時、「プサトゥ」が異集団を象徴させるほどの勢力を持っていたことを示唆するのではないだろうか。

「『ゆんぬ』の冒険」をアップロードしました

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 「ゆんぬの冒険」の内容に問い合わせもいただくので、当日のファイルをアップロードした。おしゃべりの補助としてスライドを使うので、これを眺めるだけでは文脈は掴みにくいかもしれないが、文章に起こしているわけではないので、詳細は当日いらしてくださった方々の印象に残るものがすべてだ。

 ただ、その場で受けた刺激もあるので、何らかの形で整理していきたいと思っている。この機会を提供してくれた「ゆいまーる琉球の自治」の松島泰勝さん、声をかけてくれた前利潔さんに深く感謝したい。とーとぅがなし。


「磯武里墓の由来」は要修正

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 花城眞三郎の墓として知られる磯武里(いしゅぶり)墓。その碑にある「磯武里墓の由来」は、史実に不正確である。

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 まず、花城眞三郎の由来年代として二つ、挙げられている。

明応1年 1492年 誕生
永正9年 1512年 渡島(21歳)

 この二つは、「基家系図」の誤読からなっている。

一 ○又吉大主  従御思第部位、始而御能役被相勤、依勤忠心官位被仰附ナリ、皇代其殿ヨリ十四代之皇金丸皇三代之孫、沖屋賀武伊皇四拾八歳之御代内ニテ候、寿九拾三ニテ逝去、与論之主元祖是之、神恵ニ通スル人ト云ヘリ、御能三節ト云フ此代ヨリ始レリ、


花城與論主○
幼名花城真三郎首里ニテ生立二十一歳ニテ當嶋エ御渡島首里音故沖納言ト称ス(以下略)。(小園公雄「奄美諸島・與論島近世社会の一考察(系図と史料)」『鹿大史学』1988年36号)

 先田光演の『与論島の古文書を読む』の助けを借りながらこれを読むと、「沖屋賀武伊(おぎやかもい)」、こと尚真が48歳の時に、又吉按司に官位を授けている。それは、分かっている尚真の生誕年から計算すると、1512年のことになる。そしてその子、花城真三郎が二十一歳の時に、与論に渡島している。

 どう誤読しているのか。まず、又吉按司と花城真三郎を同一視していること、次に花城真三郎を尚真の息子と見なしたこと、さらに1512年を、父、又吉按司が官位を授けられた時ではなく、与論への渡島と見なしたこと、である。そのため、渡島の際の年齢である「二十一」から計算して、生誕を1492年としている。

 だが、「基家系図」に依れば、確かに言えることは、又吉按司が尚真から官位を授けられたこと、その年が1512年であること、花城真三郎は尚真ではなく、又吉按司の子であること、そして渡島は花城真三郎、二十一歳の時であること、である。父、又吉按司の官位授受が1512年だから、渡島は1512年以降であるとしか言えない。

 だいたい、「磯武里墓の由来」では、花城真三郎を尚真王の次男としているが、長男、尚維衡の生誕年が1494年で、由来にある1492年より遅いのだから、この点でも矛盾している。

 誤読の元は何か。「龍野家系図」である。小園公雄の「奄美諸島・與論島近世社会の一考察(系図と史料)」(1988年)によれば、「基家系図」は1830年を過ぎたころに完成したのではないかと考えられる。系図には作成の経緯が記されていて、困難を乗り越えたものであることが分かる。

 小園の整理を引用してみる。

1.文政三年以前にも正確に近い系図があった。
2.喜周与論大主より大熊の澤村大衆へ、更に孫へと傳わった。
3.沖永良部代官所が系図没収して返納しなかった。
4.文政三年澤村盛用が沖永良島に渡り書写した。
5.孫の代に家事にあい系図を、更に織地喜周大主所有の系図も焼失した。
6.大熊にもう一冊の系図あり、古老に聞書し作成しなおした。(同前掲)

 もともとあった系図が没収にあい、それを沖永良部島に行ってまでして書写するもの、焼失の憂き目にあい、それにめげずに、残された系図と聞き書きによって再生されたものが、「基家系図」である。この経緯が記されていること、またそれが筆による書写しか手段のなかった19世紀の前半におけるものだったこと、これだけを採っても、この系図に史料としての信憑を置くことはできる。

 対して、「龍野家系図」の成立は、昭和11年、1936年である。「龍野家系図」では、「又吉按司」の記述はなく、「花城真三郎」から始まっている。

花城與論主、幼名ハ眞三郎金、神號ハ又吉按司、父ハ尚眞王明應元年壬子生誕、永正九年壬申與論ヘ渡島、大永五年乙酉與論主トナリ、天正十二年甲申薨去、壽九十三、米良陵ニ葬ル又吉按司、正御思第部位始而御能役官位被仰附・・・・・・皇代美殿ノ十九代ノ王、金丸王三代ノ孫ニテ、父於義也嘉茂慧王、四拾八歳之御代内ニテ候。與論與ノ主元祖是ナリ、神惠ニ通スル人ト云ヘリ、御能眞三郎金ト云・・・・・・ヨリ始レリ

 この後は、「基家系図」の花城真三郎の少年譚、渡島譚に接続されている。「龍野家系図」の記述では、「幼名ハ眞三郎金、神號ハ又吉按司」として、花城真三郎が又吉按司と等号で結ばれてしまっている。そのため又吉按司の亨年である93歳が、花城真三郎の亨年として理解されている。あとの誤読は、「磯武里墓の由来」と同じものだ。「磯武里墓の由来」の誤りは、この「龍野家系図」であると思われ、それは1963年の増尾国恵『与論郷土史』にも引き継がれている。

 しかし、これは単なる誤読ではないと思える。「基家系図」では花城真三郎の渡島譚は次のように書かれている。

則與名原浦江奥□船居合其夜中ニ漕出渡嶋伯母石嶺大阿武所ニ居ラレ候ヤウニト御親父又吉大主ヨリ仰附ラレル。(小園公雄「奄美諸島・與論島近世社会の一考察(系図と史料)」『鹿大史学』1988年36号)

 与那原の浦に居合わせた船を、その夜を漕ぎだした。父親である又吉大主に、伯母の石嶺大阿武の所にいるように、と言われた。そういう意味になる。

 「龍野家系図」は、花城真三郎の少年譚、渡島譚を「基家系図」に引くが、他が同じところ、この個所はどうなっているか。

則與名原浦ニ奥俟□船居合其夜中ニ漕出渡嶋伯母石嶺大阿武所ニ居ラレ候様被仰附(「龍野家系図」)

 この個所で、「基家系図」にはある「御親父又吉大主ヨリ」がすっぽり抜けてしまっている。つまり、書き手は、又吉大主が花城真三郎の父親であることを示す記述を抜いて引用している。ここまでくると、これは誤読ではなく、作為であると言わなければならない。

 「基家系図」の1830年余と「龍野家系図」の1936年の間に横たわる約百年。この間に、書写は筆に依らずともペンや鉛筆が可能になり、文章の推敲も容易になっている。現に「龍野家系図」は、「中山世鑑」からの引用も見られ、編集された文章であることを明かしている。この一世紀は、「龍野家系図」の書き手に、作為と脚色を許すものになってしまっている。「龍野家系図」の歴史史料としての信憑性は低いと見なさざるを得ない。

 「龍野家系図」は、この後、「與論城ノ由来」、「城籠踊ノ由来」、「王子様半田米良御願ノ由来」と続くが、成果の総取りを目論んだものだとも見えてくる。これらについては改めて考えてみたいが、少なくとも、この記述を元に、与論城、城籠踊の由来を語るのは信憑性について疑問符を付さなければならない。もともと、「龍野家系図」は、「一族子孫に分ち以て其の功績並に遺訓を代々永遠に傳へ保存せしめ得る」(p.2)ことを目的に書かれたものだ。もともと身内に向けての声であることに、読み手は意識的である必要がある。

 「磯武里墓の由来」の前半について修正すべき個所を整理しておく。

此の墓は与論島初代島主花城真三郎始祖を葬った墓である。始祖は首里城で尚真王の次男として明応元年一四九二年に生まれ幼名を真三郎と称す。永正九年西暦一五一二年二十一才で与論島に渡り統治する 

1.与論島の初代島主は花城真三郎ではなく、その父、又吉按司である。
2.1512年は、又吉按司が尚真から官位を授かった年で、花城真三郎が渡島した年ではないから、そこから21歳の年齢を引いて算出した1492年は根拠がない。
3.実際、尚真の長男、尚維衡は1494年生まれなのだから、次男の生年が1492年であるのは矛盾する

 繰り返すが、「基家系図」を根拠に、確かなこととして言えるのは、与論の初代島主は、又吉按司であり、官位を授かったのは1512年であること、又吉按司の子、花城真三郎が渡島したのは二十一歳の時であること、である。

 ところで、花城真三郎が尚真の子でないことは、野口才蔵も『南島与論島の文化』のなかで1976年に指摘し、嘆いている。それから半世紀が経過している。これは、与論島にとって恥ずかしいことではないのか。

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