時は1805年、文化2年5月、夏の暑さがもうそこまでやってきている与論島。ふいに島役人は呼び出され、代官所詰め役から、砂糖黍作の誘いがかかる。達しはすぐに島中に知れ渡るところとなり、大騒ぎとなる(たぶん)。あの、搾取の代名詞と世に名高い(たぶん)黒糖生産が開始されるかもしれない。えらいことになった(シュンガレー)と、蜂の巣をつついた状態。そこで、騒ぎを重く見た島役人は、村々の長を集めて協議に入ることにした。
島役人A
「沖永良部島では、黍作にしたら生活も潤うのではないかとして、自由に作ってもよいとのお達しが出た。田んぼに作ってもいいそうじゃ。なんでも、徳之島よりも一合増しで買ってくれるそうじゃぞ。どうする?」
タラ 「ワナ、バーオー(俺は嫌だ)」
ジャー 「アグマシャチバ(面倒臭いってば)」
マニュ 「アッシェ、キビチガディ(ああ、黍なんて)
ハナ 「バーデール(嫌です)」
島役人A
「バー(嫌だ)、アグマシャイ(面倒だ)で済むわけないだろう。相手は代官様だぞ。ん~、困った。嫌だと言うなら断りを入れなければならん。理由を、理由を言いなさい。何か、ないのか。」
タラ 「ん~」
ジャー 「ん~」
マニュ 「ん~」
ハナ 「ワーチョー(私たちは)、竹も木もないから船さえ作れないじゃない」
島役人A
「それだ。フリカキ、フリカキ(それを書け、それを書け)」
島役人書記
「与論は竹や気のない所で、沖永良部島や諸島に通う御用船にしても作りかねている所でござ候」
島役人A
「他には、他にはないか」
タラ 「ん~」
ジャー 「ん~」
マニュ 「ん~」
島役人B
「仮屋も蔵も、家も農具も山原(ヤンバル)に買い求めているありさまよのう」
島役人A
「フリ、フリ(それ、それ)。フリカキ、フリカキ(それを書け、それを書け)」
島役人書記
「その上、仮屋、お蔵、役所から島役人の家や農具に使う木材や明り用の松まで、みな山原の方へ買い求めて、公私の用を足しており候。黍作に取りかかっても肝心の薪がないありさまにて候」
島役人A
「うむ。他にも、何かないか」
タラ 「ん~」
ジャー 「ん~」
マニュ 「ん~」
ハナ 「ワーチョー(わたしたちは)、枯れ草や牛の糞を焚き火用にしてようやく仕事をしているじゃない」
島役人A
「ガシガシ(そうだそうだ)。フリカキ、フリカキ(それを書け、それを書け)」
島役人書記
「枯れ草や牛の糞などを朝夕の焚き火用にしてようやく仕事をしているありさまにて候。砂糖上納が自由にできるというほどには出来ません。かえって、困ったことになるのではないかと恐れ候」
島役人A
「その付け足しはいいな。ちょっと説得力が出てきたぞ。他には、他にはないのか」
島役人書記
「必要な物を他の島へ買い求めなければならないので簡単には調達できず、砂糖を仕上げる際の道具も買い求めなくてはならないので、砂糖を仕上げる時分に間に合わせるのも覚束ず、これは、そうしなさいと押し通すまじきことと考えます」
島役人A
「ん?そこまで書くのか。大丈夫か、そこまで書いて。相手は、代官様だぞ」
タラ 「ナユンマーニ(いいじゃないか)」
ジャー 「ションヌフトゥデールムヌ(本当のことだもの)」
マニュ 「ガシ(そうだ)」
ハナ 「ガシガシ(そうよそうよ)」
島役人A
「じゃ、じゃあもっと、理由を足そう。他に、他にはないのか」
タラ 「ん~」
ジャー 「ん~」
マニュ 「ん~」
ハナ 「砂糖づくりは、イチゲータラ(いつでしたっけ?)」
島役人A
「十二月から一月とのことじゃ」
ハナ 「正月、二月は稲の植え付けの時期ですが、雨水を頼りに作っているので、田んぼの踏みつけをやっています」
島役人A
「おお、ぬしは知恵者よ。よし、フリカキ、フリカキ(それを書け、それを書け)」
島役人書記
「総じて田は、天水で行っていれば、雨で潤い次第、牛馬で油断なく踏みつけをしないと、水持ちが悪くなってしまう。しからば、製糖に取りかかって潤うと言われても、田地のし付けがあいととのわくなり候」
島役人A
「「油断なく」が効いておるのう。いいぞ。よし、いよいよ断りの締めを入れよう」
島役人書記
「島役人と島中の者で吟味しました。有り難い仰せに恐れ多いことではありますが、なにとぞ、黍作の儀は、ご免くださいますようお願い奉り候。さようのことであるから、田地のことに出精したいと思い候」
島役人A
「ん~、なかなかの締めじゃ。おぬしも骨があるのう。よし、記名をするぞ。そうだ、島役人全員でな。総意ということで。山本源七郎様、っと。できた」
こうして、「恐れながら口上書をもって訴え奉り候」と題した書面が、代官詰め役に届けられる。しかも、驚くべきことに、くどくどした断りの意向は通り、この時、与論島は砂糖黍作を免れたのだった。与論島に砂糖の惣買入制が敷かれるのは、それから半世紀も経った1857年。明治維新はもうすぐだった。
奄美の黒糖生産と言えば、薩摩の直轄地だった間、ずっとそうだったように想像しがちだが、沖永良部島が1853年、与論島が1857年とだいぶ経ってからだった。別の面からは、喜界島、奄美大島、徳之島のみんなは長い間、がんばっていたということでもある。
(※ 島人名はもちろん架空。当たっているかもしれないけど。口上書の全文は、「1805年の抵抗」)