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昔、沖縄の人が酒徳利を売っていた

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  島の南の浜辺を菊千代の『与論方言辞典』で辿ると、エピソードが添えてあって面白い。特に、沖縄の人の酒売りが。

 沖縄の人は、もうひと稼ぎを狙ったものか、生活に窮して与論まで来たのか、また島のなかではこっそりやっていたのか、堂々と売っていたのか、分からない。でも、言われてみれば自然な交流だけれど、言われなければ想像にいたらない、貴重な証言だ。島々は思っている以上につながっていたのだと思う。

 ハジラバマは、カズラから来ていたんですね。

タティダラ

大字麦屋の内の、小字アマミズと小字真正との境に位置する通称地名。海岸の岩根から湧水が出る。この地の海岸はイョー(岩穴)があって、昔は沖縄の人が泡盛入りの徳利を持ってきて、隠れて売っていたといわれる。(p.289)

トゥーシ

大字麦屋の小字種窪の海岸の通称地名。またはその一帯の名。語源はトゥールイシ≪筒抜けになった穴岩≫の意であろう。【補説】岬になっているパンタはトゥーシヌパンタと呼ばれ、昔、シニュグの神送りなどされた所だといわれている。また、この地の岩穴は昔、沖縄の人が国頭から酒徳利を舟で運び、ここで寝泊まりして売っていたと言われる。この地の東方の海のクチにはヤンバルグチと呼ばれるクチもある。(p.350)

ハジラバマ

カズラ浜。浜の名。島の東南部、大字麦屋の小字風花の沿岸にある。かつは浜一面グンバイヒルガオが生え広がっていた。ハジラはカズラの意。(p.425)

ワタンジ

渡り地。大字麦屋の小字風花の南海岸と、その近くの海の通称地名。ここは陸地からすぐ礁原になっていて外海とつながっている。昔この地の海岸の岩穴に沖縄の人が酒などを運んできて売っていたと言われる。(p.635)


 「与論の砂浜」 

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与論城を築城したのは誰か

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 ぼくたちは、花城(はなぐすく)真三郎の事績に、その父、又吉大主を取り込み、尚真の子にすり替えた「龍野家系図」を、虚実なじまぜに編集されたものとして読むという構えを持たざるをえない場所にいる。

 「龍野家系図」は、与論城の築城も花城真三郎によるものだとして書いている。読みにくいので現代語訳を試みて引用する。

 かくて渡島、我保須賀大主、名戸麦屋大主、上里大主、又吉大主として任じること14年、ついに大永5(1525)年、與論世の主となった。ここにおいてますます島民の統治執行の府として、将また防備並びに居城として築城の必要に迫られたが、この築城を心得た技術者はなく、ついに首里から大里と称する技師、その他数名の技手ならびに多数の人夫を招き、島中最高の地を選択し、首里城に勝る築城の計画を立て、任に当らしめた。
 けれどもこの築城用の石材が乏しく、苦心の結果、赤崎、追城(上城か-私訳者注)にあった石を運搬し、あるいは各所に散在した積墓の石を取り壊し(ただし、築城の功労者の祖先の積墓は保存)、または全島にある石を集めるなどしてようやく内城および外城の形状を構成した。すなわち首里城に倣い、内城は北側に物見櫓を築造し、外城は城屏を清川までまわし、首里城と同じくこの川より城まで水を引き入れようとしたが、水を揚げることができず、遂にその目的は失敗に帰した。このように苦心惨憺、ようやく築城竣工したことをもって、又吉翁主はついに居城を構え、花城與論主又吉按司と号して、島民の統治を行うに至った。これすなわち、與論城趾の由来なり。(p.51~52「龍野家系図」)

 小園公雄の「奄美諸島・與論島近世社会の一考察(系図と史料)」(『鹿大史学』1988年36号)によると、冒頭の「我保須賀大主、名戸麦屋大主、上里大主」は、「基家系図」の表紙の次に記されたものだ。「我保須賀大主、名戸麦屋大主、上里大主」が、この系図作成に当った者たちのことか分からないが、少なくとも、花城真三郎が歴任した官位のこととしては書かれていない。また、「又吉大主」は、その次に官位由来の経緯が続く父のことである。「龍野家系図」は、これらの要素を花城真三郎の事績のなかに取り込み、代わって尚真の子であることにしてしまっている。

 むしろ、「基家系図」によれば、花城は渡島後、「首里音故沖納言大主」あるいは「沖納言大主」と称したと書いてあり、こちらを引かないのが不思議に思える。

 したがって、大永5(1525)年、與論世の主になったという年次について、ぼくたちはその信憑性も疑わざるを得ない。『与論町誌』もこれを無防備に引いているが、史実と言い切ることはできないと思える。

 この後の与論城築城の経緯にはリアリティを感じる部分もある。それは首里城に似せようとしたことだ。それは、花城の出身が首里近傍にあるからで、彼が首里城を念頭に置くのは自然なことだ。水を引こうとしたが失敗に帰したという個所などは、事績の取り込みにご執心の常とは異なる構えが感じられる。また、島人の墓を壊して必要な石を調達したことも。

 与論城を築城したのは誰か。ぼくに、それは北山王由来の王舅とする伝承が真を指すと感じられる。

 第一に、時折指摘されるように、与論城の平面図は、首里城よりは今帰仁城に似ている。

Yoronjo2
与論城(竹内浩『辺戸岬から与論島が見える』)

 Nakijin
「今帰仁城」

Syuri
「首里城」

 ぼくは城郭としてのグスクの構造に詳しくないが、与論城の作り手は、首里城よりは今帰仁城を念頭に置いたとする方が自然に思える。また、いくら首里近傍出身とはいえ、「首里城に勝る築城の計画」は野郎自大で、相当に不自然な発想に思える。

 ここに一片のリアリティがあるとしたら、与論城の伏龍型の石垣の向かう先が今帰仁城に対峙するようにあることである。それは尚王朝によって置かれた山北監守の一角を占めたと考えると、合点がいかなくもない。が、与論からも目を光らせるほど山北の勢力が脅威であったかは分からない。

 第二に、「龍野家系図」が次のように書いていることだ。

 こうして諸制度完備し、島中、安穏に治り、島民の敬慕も厚かったが、ついに病魔が襲い、九十三歳で死去した。島民の哀悼は深く、平之半田、米良陵にこれを葬り、もって祈願所となした。これより後、人この地名を王子様(をうしゃん)半田と称し、この祈願所を米良(ミーラ)御願と称するに至ったと伝う。これすなわちその由来なり。與論主傳録記。(p.54)

 ミーラ半田の「おーしゃん墓」は、花城真三郎の墓だというのだが、流布している伝承はそうなっていない。そこは、王舅墓として知られている。ぼくもこの系図を見るまでは、花城ゆかりの地であることを耳にしたことはなかった。ここで書き手は、わざわざ「王子様」に「をうしゃん」とルビを振るのだが、ぼくたちは、これは既に伝承としてあった「おーしゃんばか」の口伝を無視できずにそこに無理矢理、漢字を被せた作為を読み取らざるをえない。

 第三に、墓名にもかかわる伝承の成り立ちから言えることである。

 花城真三郎は、琉球王朝を統一した尚真の意のもとに、その体制を支える者として来島している。そして、花城とその一族の末裔は、薩摩侵攻後の大和世においても、島の統治者の地位を失わずに、三世紀近くを貫徹している。そのなかで、花城とその一族の末裔が、与論城の築城者として名乗ったとしても、王舅とその一族の末裔は声を挙げ異議を唱えることはできなかっただろう。そこに、花城築城の伝承の余地が生まれる。

 しかし、逆はどうか。仮に、花城が与論城を築城したとして、その後に王舅とその一族の末裔が与論城の築城の伝承化を画策する動機を持つことは考えにくい。また、画策したとしても、既に花城とその一族の末裔が圧倒的な力で与論の主になっている治世下において、新たな伝承を流布することは不可能だと思える。

 しかし、王舅とその一族の末裔だけではなく、島人が王舅築城を口に乗せているのである。

 これらのことから、与論城の築城は王舅によるものとみなすのが妥当である。その一世紀後、渡島した花城が、そこに手を加えることはあったにしても、それまで何もなかったかのような装いを、ぼくたちは受け容れるわけにいかない。

 ここで、「磯武里墓の由来」の修正点を追加したい。

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此の墓は与論島初代島主花城真三郎始祖を葬った墓である。始祖は首里城で尚真王の次男として明応元年一四九二年に生まれ幼名を真三郎と称す。永正九年西暦一五一二年二十一才で与論島に渡り統治するに当たり、島内を一巡され現在の琴平神社跡に立って島内を見渡し、築城に最適の場所であると判断してそこに築城して与論島を統治された人で、尚先祖よりの言い伝えによると葬儀の際は田畠から墓まで布を敷き其の上をお供して葬ったとの言い伝えあり 知力 能力 力量共に優れた人で与論島発展の基礎を築かれた最初の人であると言われている

 前半の修正すべき個所は既に触れている(「「磯武里墓の由来」は要修正」)。今回、指摘したいのは「島内を一巡され現在の琴平神社跡に立って島内を見渡し、築城に最適の場所であると判断してそこに築城」の個所だ。ここは王舅の事績として書かれるべきものであり、ありうるとしたら、そこに花城が何を加え修正したかという点である。

 伝承の花城は、父の事績や王舅の事績を取り込み、尚真を血縁に持ち込もうとするが、そこに歴史の総取りへの目論見を感じないわけにいかない。それは、「磯武里墓の由来」の末文にも現れている。「知力、 能力、力量共に優れた人」という舌のまわらない言いようは仕方ないとして、「与論島発展の基礎を築かれた最初の人であると言われている」ということは書くべきではない。虚偽だから、である。「発展の基礎」に対し花城は何かをなしたかもしれないが、「最初の人」であるというのは、花城以前の島の1500年を無きがごとくに扱うもので、虚偽であることは何も知らなくても分かる。こうした歴史総取りの構えが透けてみえることは、彼の事績の信憑性が小さくなることに寄与しこそすれ逆ではないことに、「磯武里墓の由来」の製作者は思い至らなければならない。何より、こうした伝承を振りまくことで、いちばん恥ずかしい思いをしているのは、花城真三郎その人ではないか。

「花城真三郎は、石嶺の屋敷におられたであろう」

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 ほんとは花城逸話で関心をそそられるのは、与論城のことではなく、渡島のいきさつだ。「基家家系図」の渡島譚の末尾近くは次のように書かれている。

則與名原浦江奥□船居合其夜中ニ漕出渡嶋伯母石嶺大阿武所ニ居ラレ候ヤウニト御親父又吉大主ヨリ仰附ラレル。(小園公雄「奄美諸島・與論島近世社会の一考察(系図と史料)」『鹿大史学』1988年36号)

 与那覇から舟に乗る花城真三郎に、父、又吉大主は、「石嶺大阿武」の所にいるようにと助言しているのだ。この個所を、先田光演は『与論島の古文書を読む』で、「父又吉大主は叔母石嶺大阿武(おおあむ)(高級神女)を付き添わして、真三郎を与論島に逃したのであった。(p.301)」としているが、読み違いだと思う。

 なぜ、又吉大主は、与論の「石嶺大阿武」を知っていたのだろうか。野口才蔵は『南島与論島の文化』で、面白い逸話を載せている。

 つぎに王舅から四・五代後に同じく血縁に当たる又吉大主の子、花城真三郎が渡島して、第一代与論主となる。渡島してこられた花城真三郎は、一時、石仁の現在の石嶺恵円氏の屋敷におられたであろう。(p.89)

 「花城真三郎は尚真王の次男」の次は、花城真三郎は王舅の系統か。おいおい野口先生、あなたまで英雄引き寄せをするのか、と驚きかけるが、そういうわけではなかった。野口は、麓桓茂から聞いたこととして次のように書いている。

 石仁の祝女(ノロ)(王舅の系統)が妹をつきそいにして、首里に上国したら、妹は美人であったらしく、その妹は、又吉大主の目にとまり、その妾になって、生れたのが花城真三郎である、とのことである。だから、その祝女は、真三郎からは伯母にあたる。

 こうしたいきさつは弱小な共同体が英雄を引き寄せる構造として、あちこちにあるので、眉に唾せずには見ていられないものだが、「伯母石嶺大阿武」の所に居なさいという又吉大主の言づてと照合すると、信憑性が出てくる。

 また、石仁の祝女である石嶺が、「大阿武」(うふあむ)であることと、彼女が北山王の系統に属することも無理がない。石嶺が「大阿武」(うふあむ)すると、与論の祝女では最高位にあっただろうからである。すると、花城真三郎が王舅の血縁に当たるとするのも、筋は通っていることになる。

 ぼくたちはここで、おもろを思い出す。

はつにしやが節
一 与論(よろん)こいしのが
  真徳浦(まとくうら)に 通(かよ)て

  玉金
  按司襲(あじおそ)いに みおやせ
又 根国(ねくに)こいしのが

(932、第十三 船ゑとのおもろ御さうし、天啓三年)

 「与論こいしの」とは、石嶺の祝女のことかもしれない。

 野口は続けている。

 石嶺宅で次の話を聴取した。昔マチヌトートゥ(火災からのがれる祈願)があった時には、故竹内福富氏は、祈願は、常に石仁の石嶺恵円家から始めなければ祭りはとおらない。石嶺家は神高い、と言われたとのこと。また不浄な女が表庭など歩けば祟りがあるとのことなどを話された。(竹内福富氏は易者)
 真三郎は、石仁に居られてから、後に現在の金井清蔵氏が住む、「花城」に居を移したであろうと考えられる。と、林先生は説かれる。花城真三郎が来島されたのは、紀元一五一二年である。「花城」の地名であるが、真三郎が来島しない前には、おそらく花城という地名は、なかっただろう。(p.90)

 これまで考えてきたことから言えば、「花城真三郎が来島されたのは、紀元一五一二年」ではなく、これは又吉大主が尚真から官位を授かった年だった。また、「花城」地名は真三郎の前になく、真三郎の居住とともに出来たもので、それは那覇の花城にちなむと考えられる。

 野口才蔵が足で稼いだ伝承の聴き取りは、与論史の点と点のあいだに線を浮かびあがらせることがあって、ぼくたちはずいぶんと助けられるのだ。こういう聴き取りがたくさんほしい。

 

タンディの元

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 与論で、タンディは、謝罪の「ごめんなさい」の意味になる。けれどそれだけではなく、与論茶花では、別れの「さようなら」の意味になる。まだあって、依頼を強調する時に、「タンディドーカ」と「タンディ」を添えることもあり、「どうぞ」のような意味になる。

 しかも、タンディは、宮古島では、感謝の「ありがとう」の意味になり、タンディガタンディと強調される。タンディは広がりのある言葉だ。

 別れの意味の「タンディ」は、与論では茶花のみで、ふつうには「ナーヤー」が使われる。茶花は新しい集落であってみれば、タンディ自体が、16世紀以降の首里近傍から訪れたグスクマ・サークラの集団によって、言葉自体か使われ方が持ち込まれたか、茶花と他島との交流によって生まれた言葉だという可能性を持つ。いずれにしても、別れの意味として使うのは新しいだろう。

 多様な意味の広がりを持つのは、「おもろそうし」での言葉の使い方に似ている。たとえば、「京」、「今日」の漢字を当てられる「けお」などは、「素晴らしい」の意味になり、「意地気」も「立派な」の意味になり、「搔い撫で」も、「撫で慈しむ」の意味になっていた。「かなし」には「加那志」の字が当てられるが、「愛し」あるいは「哀し」を元にした同様の用例だと考えることができる。

 仮説的に書けば、十数世紀に大和あるいは朝鮮経由の集団が大量に琉球弧に流入し、琉球弧に統一性をもたらす契機になる。その際、大和言葉も持ち込まれるが、琉球弧は、言葉を単純に摂取したのではなく、その使い方において、肯定的な意味を持つ言葉を、その本来の意味を離れてでも、形容的な美称、敬称、尊称として使ったのだ。

 タンディの多様な意味の広がりを踏まえると、これを琉球語の語法のなかに位置づけるのは無理のないことだと思える。

 タンディの元になった言葉は何だろう。タンディは、「ごめんなさい」、「さようなら」、「ありがとう」の意味を離れて、続く言葉を補う「どうぞ」、「なにとぞ」の副詞的な意味まで持つ、その広がりのなかから、元の言葉を辿ろうとすると、「頼」の言葉が浮かんでくる。

 「おもろそうし」では、「大和 頼(たよ)り 成(な)ちへ」(96)と、時折、使われる言葉で、この場合は、「大和を縁者にして」と、やはり意味は拡張されている。

 「頼」が、「たる」に当てられている場合も一例だけ、ある。

あんのつのけたちてだやればが節
一 吾(あん)のつのけたち
  吾(あん)のおやけたち
  越来(ごゑく)のてだ
  頼(たる)です 来ちやれ
又 今日(けお)の良(よ)かる日(ひ)に
  今日(けお)のきやかる日(ひ)に
又 たう(/\)は 走(は)ちへ
  坂々(ひらひら)は 這(は)うて

(83、巻ニ)

 「頼(たる)です」、「頼みにして」と訳注は解説している。「る」に注目するのは、与論にも、タルディの言葉はあって、タルディからタンディとなったと解したくなるからだ。

 元の語を、「頼」に置くと、相手を頼みに思うことが、感謝や謝罪、そして別れや依頼の強調に使われる琉球語の語法に適っているように思えてくる。

 

琉球弧の「ありがとう」は、「拝」、「誇」、「尊」、「頼」!?

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 琉球弧の「ありがとう」表現は多彩だ。

 島名は煩雑なので、省略してマップにしてみる。各島々、発音の微妙な違いや別の言い方がきっとあるのだが、そこまで及ばないのはご容赦ください。教えてもらえると嬉しい。


Photo_2


 これらはよく「全く違っている」と言われるけれど、神への儀礼の場面を元にしているとみれば、捉えやすい。これも仮説のひとつに過ぎないが、それらは漢字一文字を軸に表すことができる。

 「拝」 沖永良部島、沖縄島、八重山
 「誇」 喜界島、徳之島、与那国島
 「尊」 与論島
 「頼」 宮古島

 沖縄島を中心にした「ニフェーデービル」、沖永良部島の「ミヘディロ」、石垣島などの「ミ(ニ)ーファイユー」は、御拝、二拝、三拝などの言葉に相当していると思う。

 奄美大島は、「アリガタサマアリョン(タ)」としたが、「オボコリ」を採れば、喜界島の「ウフクンデール」、徳之島の「オボラダレン」、与那国島の「フガラッサ」と同様で、誇り、を原型にしていると考えられる。

 与論島の「トートゥガナシ」は、尊い、になる。

 また、宮古島の「タンディガタンディ」は、頼る、と捉えてみた。(cf.「タンディの元」

 儀礼を伴うということは、「おもろそうし」の儀礼歌を思い起こさせるが、「誇り」は、そのままでも使われている。

うらおそいおやのろが節
一 玉(たま)の御袖加那志(みそでがなし)
  げらゑ御袖加那志(みそでがなし)
  神(かみ) 衆生(すぢや) 揃(そろ)て
  誇(ほこ)りよわちへ
又 奥武(おう)の嶽(たけ)大王(ぬし)
  なです杜(もり)大王(ぬし)
又 かゑふたに 降(お)ろちへ
  厳子達(いつこた)に 取(と)らちへ

(237、第五 首里おもろの御そうし、天啓三年)

 また、該当する漢字が一対一対応で容易く想起されるということは、これらの言葉が、比較的新しい言葉ではないかと思わせる。もっと言えば、「おもろそうし」に見られる、大和言葉を、その意味を踏み台にして、多彩な美称の接尾辞、接頭辞に展開した琉球語の語法を感じさせる。

 そう思うのは、宮古島の「ありがとう」、「タンディガタンディ」は、与論島では謝罪の「ごめんなさい」へと反転して使われている。それだけでなく、与論島の「タンディ」は、他の意味でも使われる(cf.「タンディの元」)。これは、「ありがとう」を示す言葉たちが、もともと琉球弧にあった言葉ではなく、流入した大和言葉を、琉球語の語法でアレンジしたものだと見なすと理解しやすい。

 祖先であり神であるものとの関係が第一義的にある。それが現世にくだれば、支配者や強者、他者との関係にも現れる。「感謝」の言葉はそれも最も正直に、それを反映するだろう。すると、「拝」系の二フェーデービルは、祈願の所作に、「尊」系の「とーとぅがなし」は、神そのものに焦点を当てていることが分かる。また、「誇」系の喜界島の「ウフクンデール」は、神や支配者への畏敬を、「頼」系の宮古島の「タンディガタンディ」は、神や支配者への依存を示したものだと見なすことができる。

 しかし、こう書くともっともらしいが、「感謝」の言葉が統一せずに、それぞれの島のバリエーションを持っているのは、それぞれの島に、その言葉を選択する必然性があったのではなく、ここには多分に、偶然性が寄与していると思える。

 「今日(けお)」を、立派な、素晴らしいの意に拡張させる琉球語感覚をもってすれば、祈願の対象や所作であれ、支配者や強者への畏敬や依存であれ、「感謝」を示す気配があれば、そこにある象徴的かつ肯定的な言葉を選択すると、感謝を意味させることも、自然な流れだったろう。それが、島人の語感に委ねられた結果が、四つの系列を生み出し、そのなかでも、与那国島の「フガラッサ」から、徳之島の「オボラダレン」、喜界島の「ウフクンデール」までの広がりを持った言葉として、定着する余地、というより、幅を持たせたのだ。

 それは、宮古島の「タンディガタンディ」と与論島の「タンディ」を見れば、分かる通り、ひとつの言葉が選ばれたとしても、それは「感謝」の意味に転がることもあれば、反転して「謝罪」の意味に転じる自由さも持っていた。

 言い換えれば、琉球弧の島々には、ここに表記されていないさまざまな「ありがとう」が、四つの系列の流れを汲みながら、さまざまに口にされているに違いない。

 琉球弧の「ありがとう」はそれぞれが全く違うのではなく、言葉の心を等しくしながら、その表現において自由だった結果なのだと思える。
 

1805年の抵抗

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 時は1805年5月。与論島の島役人に、代官所から砂糖黍作の誘いがかかる。これを受けて、島役人は、願い下げとして断りの口上書を認める。以下に挙げるのは、その口上書の私訳だ。


 恐れながら口上書をもって訴え奉る候

 沖永良部島では、専ら稲作をしてきたけれども、近年百姓みな困窮してきたので、自由(勝手次第)に黍作を行えば、潤うのではないかと聞こし召され、黍作の支度をする者は、田地のなかに自由(勝手)に作ってもよく、出来た砂糖は、徳之島の定式買い入れの砂糖代の米に一合を加えて買い入れ、年貢米差し引いて上納してよい旨、仰せ渡されていることは承知している。

 役々と百姓たちで吟味した次第を左に申し上げ候。この節に仰せ渡された通り、島中の田地で黍作をすることはできても、当島は竹木の無い場所で、沖永良部島や諸島に通う御用船にしても調達しかねることに候。その上、仮屋、お蔵、役所から島中の役々まで、居宅や農具などに使う木材や明り用の松までみな山原の方へ買い求めて、公私の用を達しているので、この節に黍作を仰せつかり、申請して植え付けをしても、砂糖を仕上げる際の薪がほとんどないので、当島では、枯れ草や牛の糞などを朝夕の焚き火用にしてようやく仕事をしているので、砂糖上納が自由(勝手)にできるというほどには出来ません。却って、厄害の筋になりかねないと思われる。

 用物を他島へ買い求めなければならないので容易には調達することはできず、砂糖を仕上げる際の道具も買い求めなくてはならないので、砂糖を仕上げる時分に間に合わせるのも覚束ないので、相調えるよう押し通すまじきと考えます。

一 製糖の期間は十二月から二月までとの由。しからば当島の田地のは、全て天水の場所で稲刈り納めて済ませたら、雨で潤い次第、早速油断なく踏みつけを行い、そして九月中旬に苗を蒔き、正月、二月に植え付けを行います。しかし大方、正月、二月くらいまでは、雨で潤えば踏みつけを行っている最中でもあれば、製糖時期と重なってしまい片方に差し支えてしまう。もっとも熟田の場所は、四反八畦であり、総じて天水のみなので、雨で潤い次第、牛馬で油断なく踏みつけをしないと、水持ちが悪くなってしまう。しからば、製糖に取りかかって潤うと言われても、田地のし付けがあい調わなくなると、役々と島中の者で吟味しました。これにより、有り難い仰せに恐れ多いことではありますが、何卒、黍作の儀は、御免くださいますようお願い奉り候。左様のことであるから、田地のことに出精したいと思う。これらの趣旨を仰せ上げるよう頼み上げ奉る。以上。

  丑五月
          与論島掟   右同    右同
           喜佐行   當祐基   佐郷幸
          右同      右同    右同
           直宜見   三千澄   常川
          右同目差定寄 右同   右同
           喜久山   三穂巴   直冨
          右同横目  右同与人寄 右同与人
           前里    喜久里    喜志村
与論島御詰 御附役
 山本源七郎様
(「與論在鹿児島役人公文綴」『与論島の古文書を読む』を私訳)

 なんともくどくどした断り方だが、この口上書の成果は確かにあり、この時、砂糖黍作は施行されていない。惣買入が与論島で開始されたのは、1857年。あとわずかで明治維新の時だった。

 また、この口上書からは、島役人と島人の間に大きな断絶も無かったことが伺い知れる。

日本昔ばなし風「砂糖黍作を断った話」

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 時は1805年、文化2年5月、夏の暑さがもうそこまでやってきている与論島。ふいに島役人は呼び出され、代官所詰め役から、砂糖黍作の誘いがかかる。達しはすぐに島中に知れ渡るところとなり、大騒ぎとなる(たぶん)。あの、搾取の代名詞と世に名高い(たぶん)黒糖生産が開始されるかもしれない。えらいことになった(シュンガレー)と、蜂の巣をつついた状態。そこで、騒ぎを重く見た島役人は、村々の長を集めて協議に入ることにした。


島役人A
「沖永良部島では、黍作にしたら生活も潤うのではないかとして、自由に作ってもよいとのお達しが出た。田んぼに作ってもいいそうじゃ。なんでも、徳之島よりも一合増しで買ってくれるそうじゃぞ。どうする?」

タラ  「ワナ、バーオー(俺は嫌だ)」
ジャー 「アグマシャチバ(面倒臭いってば)」
マニュ 「アッシェ、キビチガディ(ああ、黍なんて)
ハナ  「バーデール(嫌です)」

島役人A
「バー(嫌だ)、アグマシャイ(面倒だ)で済むわけないだろう。相手は代官様だぞ。ん~、困った。嫌だと言うなら断りを入れなければならん。理由を、理由を言いなさい。何か、ないのか。」

タラ  「ん~」
ジャー 「ん~」
マニュ 「ん~」
ハナ 「ワーチョー(私たちは)、竹も木もないから船さえ作れないじゃない」

島役人A
「それだ。フリカキ、フリカキ(それを書け、それを書け)」

島役人書記
「与論は竹や気のない所で、沖永良部島や諸島に通う御用船にしても作りかねている所でござ候」

島役人A
「他には、他にはないか」

タラ  「ん~」
ジャー 「ん~」
マニュ 「ん~」

島役人B
「仮屋も蔵も、家も農具も山原(ヤンバル)に買い求めているありさまよのう」

島役人A
「フリ、フリ(それ、それ)。フリカキ、フリカキ(それを書け、それを書け)」

島役人書記
「その上、仮屋、お蔵、役所から島役人の家や農具に使う木材や明り用の松まで、みな山原の方へ買い求めて、公私の用を足しており候。黍作に取りかかっても肝心の薪がないありさまにて候」

島役人A
「うむ。他にも、何かないか」

タラ  「ん~」
ジャー 「ん~」
マニュ 「ん~」
ハナ  「ワーチョー(わたしたちは)、枯れ草や牛の糞を焚き火用にしてようやく仕事をしているじゃない」

島役人A
「ガシガシ(そうだそうだ)。フリカキ、フリカキ(それを書け、それを書け)」

島役人書記
「枯れ草や牛の糞などを朝夕の焚き火用にしてようやく仕事をしているありさまにて候。砂糖上納が自由にできるというほどには出来ません。かえって、困ったことになるのではないかと恐れ候」

島役人A
「その付け足しはいいな。ちょっと説得力が出てきたぞ。他には、他にはないのか」

島役人書記
「必要な物を他の島へ買い求めなければならないので簡単には調達できず、砂糖を仕上げる際の道具も買い求めなくてはならないので、砂糖を仕上げる時分に間に合わせるのも覚束ず、これは、そうしなさいと押し通すまじきことと考えます」

島役人A
「ん?そこまで書くのか。大丈夫か、そこまで書いて。相手は、代官様だぞ」

タラ  「ナユンマーニ(いいじゃないか)」
ジャー 「ションヌフトゥデールムヌ(本当のことだもの)」
マニュ 「ガシ(そうだ)」
ハナ 「ガシガシ(そうよそうよ)」

島役人A
「じゃ、じゃあもっと、理由を足そう。他に、他にはないのか」

タラ  「ん~」
ジャー 「ん~」
マニュ 「ん~」
ハナ  「砂糖づくりは、イチゲータラ(いつでしたっけ?)」

島役人A
「十二月から一月とのことじゃ」

ハナ  「正月、二月は稲の植え付けの時期ですが、雨水を頼りに作っているので、田んぼの踏みつけをやっています」

島役人A
「おお、ぬしは知恵者よ。よし、フリカキ、フリカキ(それを書け、それを書け)」

島役人書記
「総じて田は、天水で行っていれば、雨で潤い次第、牛馬で油断なく踏みつけをしないと、水持ちが悪くなってしまう。しからば、製糖に取りかかって潤うと言われても、田地のし付けがあいととのわくなり候」

島役人A
「「油断なく」が効いておるのう。いいぞ。よし、いよいよ断りの締めを入れよう」

島役人書記
「島役人と島中の者で吟味しました。有り難い仰せに恐れ多いことではありますが、なにとぞ、黍作の儀は、ご免くださいますようお願い奉り候。さようのことであるから、田地のことに出精したいと思い候」

島役人A
「ん~、なかなかの締めじゃ。おぬしも骨があるのう。よし、記名をするぞ。そうだ、島役人全員でな。総意ということで。山本源七郎様、っと。できた」


 こうして、「恐れながら口上書をもって訴え奉り候」と題した書面が、代官詰め役に届けられる。しかも、驚くべきことに、くどくどした断りの意向は通り、この時、与論島は砂糖黍作を免れたのだった。与論島に砂糖の惣買入制が敷かれるのは、それから半世紀も経った1857年。明治維新はもうすぐだった。

 奄美の黒糖生産と言えば、薩摩の直轄地だった間、ずっとそうだったように想像しがちだが、沖永良部島が1853年、与論島が1857年とだいぶ経ってからだった。別の面からは、喜界島、奄美大島、徳之島のみんなは長い間、がんばっていたということでもある。

(※ 島人名はもちろん架空。当たっているかもしれないけど。口上書の全文は、「1805年の抵抗」

琉球弧の「ありがとう」地図

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 ありがたいことに、琉球松さんから、宮古島のありがとう、「スィディガフウ」を教えてもらった。考察は追ってするとして、地図に加えておく。それにしても、多彩だ。この多彩さは、琉球弧のある豊かさを示していると思う。


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スィディガフウ(孵で果報)は、予祝的な「ありがとう」

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 宮古島のありがとう、「スィディガフウ」を考えようとすると、柳田國男が思い出される。

育つ・育つるという日本語の方は、凪く展開を停止したようであるが、西南諸島のスダテイン(育つる)等は、別に原形のシデイン・シデイルンがあって、人の生まれることから卵のかえることまでを意味し、スデミヅは産井のミヅ、スデガフーは大いなる喜悦の辞、さらにこの世の衆生をスヂャという語も元はあった。旧日本の方でも、方言にはまだ幾つもの痕跡があとづけ得られる。たとえば、育てるというかわりに、大きくするという意味のシトネル、または成長するという意味のシトナルなどは、人を動詞にしたようにも考えられていたが、実際にはこの南方のスデル系と同系の語らしい。(「稲の産屋」『海上の道』

 シトネルは、シネリキヨと音が似ているのか似ていないのかが別の連想で気になるが、今は置いておくとして、柳田の言うとおり、「シデイン・シデイルン」が古い言葉だとすると、「スィディガフー」の「スィディ」は、他の「ありがとう」系列の、拝系、尊系、頼系、誇系とは異なり、語が先にあって、「孵で」の漢字を当てていったものだと思える。

 「産井のミヅ」の「スデミヅ」は、おもろでも頻繁に表れ、世界を蘇らせるという含みを与えられている。

あおりやへが節
一 あかわりぎや おもろ
  安須杜(あすもり)の
  世持(よも)つ孵(す)で水(みづ)よ みおやせ
又 今日(けお)の良(よ)かる日(ひ)に

(255 巻五)

 「大いなる喜悦の辞」と解している「スデガフー」は、ニフェーデービルが、祈願の所作、トートゥガナシが神そのものに由来するとすれば、祈願によってもたらされる状態に焦点が当てられていると思える。これが感謝の意味になるということは、相手に対する予祝を含意して使われるようになったのだと思える。

 また、カフー(果報)は、新しい言葉だが、ニフェーデービル、トートゥガナシ、フガラッサ、タンディガタンディとは異なり、スデ、スィディのなかに、古さを宿した「ありがとう」なのかもしれない。



「アイランダー2013」歩き

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 ここ数年、行けてなかった「アイランダー2013」に足を運ぶ。初日となる昨日、とても賑わっていた。

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 しかし、わが与論島は奄美ブースのなかでポスターのみ。さみしいけれど、台風被害の後、仕方ないと諦める。来年に期待したい。あ、でも、担当者が一人いて、島案内とは別に募金箱を担当したらよかったのではないだろうか。

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 奄美ブースでは、黒糖焼酎メイン。最初は、これしかないのかと残念な気持ちになりかけたが、ずっと人だかりで、侮れない認知を獲得してきたことを再確認。ブランド力をつけたんですね。

Amami

 水間さんからバッグをいただく。これはいいね! あ、しかし、与論のシンボルマークは酒になってる(笑)。奄美のなかでも酒呑みで知られているということか、他に思いつくものがないということか。

Bag

 隣りの沖永良部島は単独でブース出展。今回は、ダイビング、ケイビング、移住案内が目的だそう。移住希望者が住宅を見つけやすいように、町が関与して、仮住宅を一年間、貸す仕組みなのだ、と。昨日は、宗さんの島唄を聴いたばかり。二日続けての沖永良部で、嬉しくなる。

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 「みそピーナツ」は、はやくもこれが最後の一袋。個袋にしただけで、よく売れると、水間さん。これも、商品開発の大事な工夫のひとつだ。

 これは、沖永良部のTyphoon作のちんすこう。

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 お馴染み、鶏飯。

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 奄美の後に沖縄に目を転じると、垢ぬけているという印象がまずやってくる。いい、悪いではなく。

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 ゆるキャラもがんばってた。与論もあったほうがいいだろうか? 島がゆる島だから、それでいいか。パナウル王国は、パロディ国家のスタートだが、あれもかなりゆるキャラ的だ。

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 粟国島。小さくて親近感を持ってきたが、地質調査に来た学者も、与論に似てますねと指摘したとか。やっぱり、つながりを感じる島だ。島の体験コースの案内をたくさんいただいた。とーとぅがなし。

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 阿嘉島。最近は、ノルディックウォーキングを推していて、島でもインストラクターを養成しているとのこと。ダイビング客は多いが、陸の楽しみを付加価値としてつけるのだという。

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 巡っていると、離島と言っても、奄美大島が島に見えないくらい大きく見えるように、どうも小さな島のほうへ自分の目が向いているのに気づく。サガですね。

 「時を忘れる」、「ゆったりした時間が流れる」、「どこにあるか知っていますか?」。そんなコピーをたびたび目にする。離島のコピーは似てくるということだ。これらのコピーはそうには違いないが、埋没しかねないことに気づかされる。

 たとえば、与論なら、民俗村の菊秀史さんが言うように、「尊加那志(と-とぅがなし)の島」と謳うと、ユニーク・ポイントをアピールできる。ただし、間違っても、尊尊我無(ソンソンガム)と表記しないように。損である。

 そこへいくと、「ないものはない」という隠岐の海士町のコピーは効いている。

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 高校生の島留学もうまくいっているとのことだ。「ひきこもりの子とかやってきませんか?」と質問してみた。「最初はそういう子もいたが、中学校の推薦を必要にしてからそういうことはなくなった」という回答。そういうニュアンスで聞いたつもりではなかったのだが、実情は分かった。島の子も刺激を受けて、「30歳になったら、島に戻ってカフェを開く」、「島に戻って村長になる」。そう威勢よく言う子も出てきたという。島留学は、島の未来も作っているようだ。与論で検討したことはあるだろうか。海士町の方の話では、校長にも恵まれているとか。

 そういえば、隠岐は、アンケートと称した島ガイドもやっていた。

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 海士町の「サザエカレー」を今回も買った。商品力、あると思う。パッケージも。

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 宝島の「島バナナ」、波照間島の「黒蜜」もパッケージが美しい。

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 佐世保の黒島。ブースの方は東京在住だが、故郷の島を応援したくて、手伝っているとのこと。東京にいながら「黒島いいね!探検隊」というFacebookページを運営して、少しでも島のことを知ってもらいたいという思いなのだという。ぼくも、全く同じことをしているので、小さな島の出身者は同じことを考えるんだなと嬉しくなった。

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 唐津のブースでは、三年の契約で島おこしに協力しているとのこと。やり甲斐を持って取り組まれているのがよく伝わってきた。がんばっている人とセットになると、その島のことがきちんとインプットされる。

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 小笠原のフラ。

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 三島村のアフリカン・ビート。ユニークなテーマを持って、そのメッカになるということか。

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 そして、五島のうどんを買った。なんでも、三大うどんのひとつに数え上げられることもあるとか。椿油を塗っていて、麺が延びないんだそう。食の強みを持つというのは、島PRにとって強力だ。

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 宮城の寒風沢(さぶさわ)米。やっぱり小さな島のブースに引き寄せられてしまう。試食させてもらったが、美味しかった。天水で作られたお米とのこと。震災で島の人口は減っているが、徐々に田んぼの面積も増やしていってるそうだ。

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 与論を云々する時、「これを食っとっけてもの何?」と聞かれるのが、いちばん苦しい質問だ。とはいえ、最近は美味し店も増えたし、もずくそば、黄金酢、きび酢、じねん塩、と顔ぶれも出てきた。でも、伸びる余地はもっとある。そのヒントがないか、というのが、今回の目的だった。

 各ブースでPRに努めている方たちとのおしゃべりはとても楽しかった。離れ小島の出身者は、似た想いを抱いていることが分かっただけでも、甲斐があった。島のPRを背負ったそれぞれの方を応援したい気になる。

 そういうわけで、このイベントでお披露目となった、『奄美群島時々新聞』の発刊、おめでとうございます。

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 「若手島人」の手になる、と書かれている。どこまで伸びてゆくか、楽しみだ。


与論史の時代区分

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 11月22日、『境界性の人類学―重層する沖永良部島民のアイデンティティ』を書いた高橋孝代さんの講演が法政大学で行われた。問題意識の起点がとても似ているので、聞きに行った次第だ。以前、論文を読んだ時は、アイデンティティの在り方について、与論との類似に目を奪われたが、今回は、むしろ違いが特に印象に残った。それは歴史の歩み方のことだ。

 沖永良部は、北山王の次男、真松千代が世の主として統治し、与論は三男の王舅が統治した。この点に関しては、伝承としてではあるが歴史を共有している。

 でも違いはすぐにやってくる。第一点は、第二尚氏成立以降も、沖永良部は、世の主の子孫が統治者を継続するのに対して、与論では、王舅系統は続かず、首里近傍からの花城与論主と、その子孫が統治者にある。ここから考えられることは、王舅とその一族は、北山滅亡後、弱体化したということだ。これは、与論への渡島以後、没北山までの時間が短かったためか、護佐丸の勢力によってダメージを受けたのか、それらのことは分からない。

 そして第二の相違点は、薩摩の大島入り後も、与論では、花城一族が、与人の地位を占め続けるが、沖永良部では、はじめは琉球系が強いものの、時間の推移とともに、薩摩系の役人によって与人が占められるという経緯を踏むことだ。

 高橋さんがその末裔に取材したエピソードによれば、薩摩役人が赴任してくると、在地の有力者は娘を連れて、藩役人も元に集う。そこで、藩役人、トンガナシが気に入った娘に杯を注ぐように言い渡すと、それが現地妻、アングシャリ指名の合い図になり、叶わなかった有力者とその娘はそこで退散する、のだという。

 藩役人と現地妻の子、トンガナシワァは、優遇され、成長すれば島役人に抜擢される。藩役人の子孫同士は姻戚関係を結び、ここに支配者階層としてのシュータ層が形成される。

 このシュータ層の形成は与論には起きなかったことだ。与論にも詰め役の藩役人は在島しており、その子孫たちも島に生まれることになるが、それは一族に留まり、横に連結されることはなかった。結果、薩摩役人系の与人も生まれていない。

 この違いを生んだ最大の契機は、1690年に沖永良部に代官所が設置されたことだ。それによって藩役人の人数が増えるということが、与人層の二重化を生んでいる。これに対して、与論の与人は、花城系で継続され、それは与人という意味では、明治になるまで変わることはなかった。

 この違いは大きいと言わなければならない。

 厳密な歴史概念で用いられることはないが、生活のなかでは、アマン世、那覇世、大和世と称することがある。この言い方は簡明である他に、ふつうの島人の言葉のなかにあるものとして親しみやすい。

 奄美では、そして与論でも、共通に言われるのは、アマン世、按司世、那覇世、大和世、アメリカ世、大和世という世替わりの流れだ。那覇世の次の大和とは薩摩を指し、アメリカ世の次の大和世は本土日本を指すという違いはあるが、大ざっぱに、島言葉よろしく、あまり厳密化されていない。

 それはそれでいいのだが、一方で那覇世の後に来る大和世は、字面の更新ほどには単色ではない。近代以降に個人の困難となった、「二重の疎外」は、それが支配権として構造化された1609年以降でいえば、支配の二重性ということになる。沖縄の、日中両属とい言い方をなぞらえれば、奄美は、琉薩両属である。このなかで、貢納は薩摩に対して送るが、冊封使来琉の際には、那覇へ貢物を送ったわけだ。

 そのなかでも、与論は、代官所は置かれず、琉球系の島役人に終始し、砂糖黍作は遅く、1857年に開始され、西郷隆盛は流配されない、という、最も大和色の弱い島だった。そうであるなら、那覇世の次の大和世は、那覇・大和世とでも呼んだ方が実態を示すのではないだろうか。その方が、明治12年、「大島郡」の設置によって、日本になるという大きな区別も明確になる。那覇世、那覇・大和世、大和世という流れだ。

アマン世
按司世
那覇世
那覇・大和世
大和世
アメリカ世
大和世

 これは、奄美のなかで最も近しく最も似ている、沖永良部島との間に、それでも存在する違いを契機に考えたことだ。しかしひょっとしたら、この区分は、与論のみならず、もっと北の島まで通用するのではないだろうか。



「とーとぅがなし」の島から琉球弧の「ありがとう」へ

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 与論島のことをひと言で表現するとしたら、与論民俗村の菊秀史さんが主張するように、「とーとぅがなし(尊加那志)」の島と言うのがいちばん相応しい気がする。日常的な感謝の言葉に「とーとぅがなし」を使っている島は、琉球弧の他島にはないからだ。

 しかし、「とーとぅがなし(尊加那志)」という言葉自体がないわけではない。それは、琉球弧の島々の、神への祝詞のなかに、しばしば使われている。けれど、祝詞のなかでは感謝の言葉ではなく、尊いお方、つまり神様そのものを指している。だから、島の個性でいえば、「とーとぅがなし(尊加那志)」それ自体ではなく、神様の呼称そのものが、神への感謝も同時に表すところから、それを日常的な感謝の言葉に使うところに与論らしさはあると言っていいい。

 聖なる言葉のなかで、その最たる聖なる存在そのものの呼称を、最も日常的な言葉のひとつ、感謝の「ありがとう」に転換する、この肩の力の抜けた、リラックスさ加減が与論らしい。そういう意味でも、「とーとぅがなし(尊加那志)」の島は与論島を言い表すのにもってこいだ。

 けれども、聖なる言葉を感謝の言葉にしているのは、与論だけではなく、琉球弧に共通している。


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 それぞれが「全く違う」ことが強調されがちな「ありがとう」の言葉たちだが、その意味を示す漢字一文字を軸にすれば、これらは五つに類型化してみることができる。

 「拝」系 沖永良部島(ミフェディロ)、沖縄島(ニフェーデービル)、八重山(ミ(ニ)-ファイユー)
 「尊」系 与論島(トートゥガナシ)
 「誇」系 喜界島(ウフクンデール)、与那国島(フガラッサ)、徳之島(オボラダレン)、奄美大島(オボコリダリョン)
 「頼」系 宮古島(タンディガタディ)
 「孵」系 宮古島(スィディガフー)

 これらの感謝の言葉をもともとの意味から捉えようとすると、沖縄島のニフェーデービルを始めとした「拝」系は、祈願の所作、与論島の「トートゥガナシ」の「尊」系は、神そのもの、喜界島のウフクンデールなどの「誇」系は、神や、按司、王などの統治者への畏敬、宮古島の「タンディガタンディ」は、神や、按司、王などの統治者への依存、同じく宮古島のスィディガフーの「孵」系は、祈願からもたらされる豊穣や喜悦であると考えられる(cf.「琉球弧の「ありがとう」は、「拝」、「誇」、「尊」、「頼」!?」「スィディガフウ(孵で果報)は、予祝的な「ありがとう」)。どれも聖なる言葉の周辺にあるもので、神との関係と、それが現世化されて統治者との関係のなかから生まれ出ている。

 また、これらは、大和言葉の漢字を根拠にしながら、もともとの意味通りに添うのではなく、むしろそれを踏み台にして、美称、尊称化した琉球語感覚にあふれている。ただし、宮古島のスィディガフー(孵で果報)の「スィディ、スデ」だけは、もともとの琉球語に「孵で」に漢字を当てたものではないだろうか。「果報」は新しく流入した大和言葉であったとしても。

 琉球弧の感謝、「ありがとう」は、共通語化されることはなく、神や統治者への関係のなかで、相手を尊重する気持ちを軸に、そのことを示す言葉たちをそれぞれの島が、感謝の意味として形成していった軌跡が、正直に残っている。それは言葉の意義に添うのではなく、多様に展開していった琉球語感覚の見事なサンプルにもなっていれば、琉球弧の多様性の象徴的なサンプルにもなっている。

 それぞれの島が、与論の「とーとぅがなし(尊加那志)」の島のように、自分の島を表すことができるほどに、それは豊かなのではないだろうか。

 


琉球弧の「ありがとう」分布

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 琉球松さんの示唆を助けに、琉球弧の「ありがとう」分布をみると、確かに方言周圏論で説明できる部分がある気がしてくる。


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 琉球弧の北と西に、「誇」系が分布し、その内側に「拝」系が分布している。そして、その中間域に、「尊」、「頼」、「孵」が来るが、中間域に位置する語は、他には分布していない。

 「誇」系 喜界島(ウフクンデール)、与那国島(フガラッサ)、徳之島(オボラダレン)、奄美大島(オボコリダリョン)、石垣島(フコーラサーン)
 「拝」系 沖永良部島(ミフェディロ)、沖縄島(ニフェーデービル)、八重山(ミ(ニ)-ファイユー)

 「尊」系 与論島(トートゥガナシ)
 「頼」系 宮古島(タンディガタディ)
 「孵」系 宮古島(スィディガフー)

 大和言葉が琉球弧に流入して、その受容と創造のなかに、最初に生まれたのは「誇」系であり、最後に生れたのが「拝」系だった。「拝」系は琉球王府の近傍から生まれたのかもしれない。そして、琉球王府近傍からの言葉の伝搬が及んでも、それがその間に生まれた言葉を代替しなかったのが、「尊」、「頼」、「孵」の言葉たちになる。

沖縄の「神拝み」と与論シニグの神路

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 『琉球王国がわかる!』の図解入りの説明をみて、やっとピンと来たのは、沖縄の「神拝み」と、与論シニグの神路歩きは同型だということだ。

 「今帰仁上り(なきじんぬぶい)」と「東御廻り(あがりうまーい)」を例に採ったコラムはこう書かれる。

 沖縄には、親族集団の門中ごとに、祖先の故地である御嶽や城跡、墓、湧水(泉)などの聖地旧跡を巡拝する神拝みという行事がある。(p.80)

 与論シニグの場合、「祖先の故地」というより、「祖先から現在までの移住経路」が軸になっている点、趣を異にするが、始原の世界に立ち返るという儀礼精神において同型であると思える。だとするなら、首里王府から来島した花城一族が、これに関与した理由も頷ける。

 問題は、そのこと、首里王府の関与以前に、神路歩きはあったかどうかということだ。

 東御廻りの起源は、国王の巡礼である。王国の繁栄と五穀豊穣を国王が祈願する行事としてはじめられた。(中略)
 これが東御廻りの原型となって、王族から士族、民間へと広まり、島の人々は老若を問わず、この巡礼の道を辿るようになった。(p.83)

 「国王の巡礼」が原型なら、与論シニグでの神路歩きは、グスクマ(外間)・サークラから始まることになりそうだが、そうはなっていない。少なくともそれは、与論主の一族が所属するグスクマ・サークラの来島以前からあったと思える。

 それなら、第二尚氏以前、つまり王舅やその他の勢力がもたらしたものだろうか。そういう伝承は残っていない。また、王族系を起点に置くと、それ以前に居住していた集団は、祖先の移住経路を神路として復元できないと思える。

 与論シニグの神路歩きは、シニグの起源よりは新しく、与論主による関与よりは古い。問題は、それがどこに位置づけられるか、だ。
 
 与論の初期からの島人集団である、ショー、サキマ、キン、アダマのサークラが、これを始めたとは考えにくい。彼らにとって、赤崎御願への巡礼は重要に違いないが、目的地へ行くことが重要であって、現在は道になっていなくても池のなかでも通行しなくてはならない厳格さが重視されるようには思えない。

 これは、サトゥ(里)に居住を構えるまでの経緯を重視する集団が始めたのであれば、必然性は理解できる。すると、「島のはじまり」の神話を持ち、北から、ハジピキパンタを経た移住経路を持つ、プカナ・サークラが浮上してくる。彼らが始めたのではなくても、神話のなかに移住の経路を語っている点からも、彼らがそれを重視するのは理解できる。

 ぼくは、プカナ・サークラをアマミキヨ集団、あるいはそれに深く関与した存在と仮説している。それに従えば、アマミキヨが安須森、今鬼神、知念森と続く沖縄の聖地開拓の記憶を保存することとも符号する。

 プカナ・サークラが与論にやってきた時期に神路歩きはシニグに取り入れられる。それがプカナに依るものかは分からないが、これがサークラ間の関係をつなぐ共同祭儀であれば、島全体の統治の実力を持った按司勢力によるものだとは確からしく思える。

 このことは、来訪神としてのシニグという側面から、また改めて考えてみたい。


信仰集団としてのプカナ

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 プカナ・サークラを、アマミク(キヨ)あるいは、それに深く関与した集団と見なしている者にとって、気になる記述。

プカナ

 麦屋西区小字タバタ(田畑)にある俗称地名。プカナマグディが生まれた地。(中略)プカンナともいう。プカナのプカは拝むの意がある。(昔この地周辺から人骨が出た)。(p.490)(菊千代『与論方言辞典』

 プカナはプカンナとも言う、とあるが、同様に、フカナともフカンナとも言う。「プカナのプカは拝むの意がある」というのは、この辞典にある「フガミュン」(拝む)を連想させる。強い信仰集団という仮説を補強してくれるものだ。



国頭との恋人つながり

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 与論には実話と民話が二重写しになった話がたくさんある。英雄時代のふたり、ウプドーナタ(大道那太)とサービマートゥイもそうだ。

 ウプドーナタについては、漢字も当てられているが、そのように実話の要素もふんだんに持っている。ナタは、北山王に仕えていたが、情勢が不安定になり難を逃れて与論に渡ってきたという。北山では那太大主(うふすう)と呼ばれていたほどの実力者だった。ここに史実を重ねようとすると、北山滅亡後、北山監守が置かれ、統治者が交代する政変の頃が想定される。

 ウプトーナタは、その末裔の子孫も健在で、今もナタを祭っている。ナタが建てたという家屋や高倉、太刀と太刀箱、留め金にデザインの施された衣装箱、そしてなんと言っても墓があり、実在の人物であることを補強している。

 民話が接ぎ木されるのは、英雄譚のなかでだ。「どこかの国の軍船が攻めよせてきた」ことに頭を痛めた琉球の王様は、与論のウプドーナタの評判を聞き、ナタに助けを求める。

 王さまは、ナタを近くによんで、知恵と力を貸してくれるように頼みました。
 ナタは、王さまに、
 「敵を打ちはろうのに、みな殺しにしましょうか。それとも、おどして追いはらうことにしましょうか」と尋ねました。
 王さまは、
 「まず、おどすことをさきにはかってもらいたい」
 といわれました。
 そこで、ナタは大弓に矢をつがえ、敵の大将の乗っている軍船めがけて射はなしました。
 ちょうどそのとき、敵の大将は昼食の膳に向かって箸をとろうとしているところでした。
 ところが、ナタの放った矢は、ねらいたがわず、大将の高膳真ん中に突きささりました。
 放たれた矢は、片手では持ちげられない大きな矢でした。敵の大将は、顔色をかえて驚きました。
 これでは勝ち目はない、そう思って、いかりを切って逃げました。
 王さまは、たいへん喜び、ごほうびにお姫さまをナタにくれたということです。(栄喜久元『奄美大島 与論島の民俗語彙と昔話』1971年)

 ここに言う王は、首里の王とは名指されず、異国も不明のままにされているが、琉球の王といいうことだけは、はっきりしている。民話の語り手にとって、琉球とのかかわりのなかにあることが自覚され、そして大切な要件として数え上げられていたということだ。琉球の王に頼まれて敵を退け、王の娘をもらう。まさに英雄譚らしいプロットだ。

 これに比べて、サービマートゥイは、墓の存在が実話を思わせるところだが、逸話は民話のそれで、しかもウプドーナタに比べて、日常的なエピソードを多く持っている。たとえば、荷物運びにあえいでいる牛を見かねて、牛の前足を肩にかついで坂を上ったり、稲刈り競争をして、八人がかりでもマートゥイが勝ったり、海のムヌ(妖怪)を追い払ったりと、より身近で民話らしい世界のなかに生きている。

 けれど面白いことに、サービマートゥイはウプドーナタの友達であったとされ、そのつながりから、サービマートゥイも北山由来の者として語られることもある。そして、二人が友達であったことを示すのは、マートゥイは国頭の奥に恋人がおり、「日が暮れると友だちのウプドーナタといっしょに、それぞれ、小舟を漕いで海を渡って」行き、明け方に、めいめいは舟を漕いでハキビナの浜に帰ってきたという。

 与論の南の浜辺と国頭の奥は、距離にして15kmほどある。それを、夜に舟で繰り出し恋人に会い、また明け方、奥からハキビナに戻ってくる。まるで隣り村に行くみたいに。ぼくたちはここで、フィクションとして、民話を聞く構えになるのだが、実はそうではないのかもしれない。当時の島人は海人でもあってみれば、これはそうできたことかもしれない。多少の誇張は含まれているにしても、これは民話だと退けないほうがいい気がする。ぼくたちが思うほど、与論と奥は隔てられておらず、盛んな行き来があったことが、このエピソードの背景にはあったのだ。ちなみに、ウプドーナタが作らせた家は、奥のそばの山から切って自分で運んできたものだと言われている。

 二人の墓は、ウプドーナタが国頭墓(クンジャンバー)、サービマートゥイが安田墓(アダンバー)と呼ばれ、両方とも国頭の地名を付けられ、沖縄島の見える場所に立てられている。これは恋人のいる方へ顔を向けているというよりは、自分たちの出自につながりを求めたのだと思える。

 島の浜辺から奥に繰り出し、またハキビナやメーバルに戻ってくるウプドーナタとサービマートゥイにとって、その海に国境や県境が引かれることなど、想像もしなかったに違いない。しかし、国境のあった時も、県境の引かれた今も、それは関係ないと思わせてくれるのが、彼ら二人の昔話なのだ。


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平安座島つながりの切ない昔話

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 柳田國男は黒潮に乗って流れついた椰子に感慨を寄せ、漂着する日本人の姿のイメージを構想していった。椰子は自然が実を落とし、自然が別の島へと流す。人が流しても、黒潮に乗せれば、どこかの北の島へ辿りつくだろう。それを、潮の流れを知っている者が、特定の島の特定の誰かへ流すこともあったとしたら、どうだろう。自然を利用した郵便。確かに届くとも分からないものを海に託す思いはどんなに切ないだろう。そして、それを確かな頼りとして受け取ることのできた者の想いはどんなに嬉しいだろう。

 漁師のジレーが海で遭難し、ハンヌ島に流れ着いて生き延びた。
 そして7年ぶりに与論島に帰ってきた。
 いつもの漁に出た浜にきてみると、自分そっくりの男の子に出会う。そして家につれていってもらったら、まさしく、自分の家だった。
 妻も元気に暮していたが、ハンヌ島の食事に慣れた今としては与論に住むことが出来ぬと別れを告げた。

 私が生きてる証として、椰子の葉っぱで作った草履を海に流すから、浜辺に草履が流れ着いたら、私が生きていると思ってくれ・・・と。

 妻と子は 長らく浜辺で草履を拾って歩いていたが、いつしかなしに 草履が浜にこなくなった。
 妻と息子のデールは海辺に塚をたてて偲んだという。

 ナータイジレーが漁から陸にあがり、水浴びした、水岩壷がある。
 ここは神聖なばしょとして、旧暦の3がつ15日にゆかりの親族3~4戸で祀られているとのこと。(竹盛窪「与論島昔話し ナータイジレー」。引用者が一部、編集)

 これは実話であってもおかしくない話だ。「ハンヌ島の食事に慣れた」というのは、ハンヌにも家族を持ってしまったという意味に違いない。椰子の草履を流す男と、それを浜辺で拾う妻と子の想いは痛切に迫ってくる。椰子が織りなした物語だが、浦島太郎の物語の背景には、こうした実話がたくさんあったのに違いない。

 ナータイジレーの名、ジレーは、石垣島のウンタマギルーのギルーと同系統の名だと思わせる。また、ハンヌ島とは平安座島のことだと言う。与論にはピャンザブニ(平安座船)という言葉が残っている。また、平安座島の南、浜比嘉島はアマミキヨ伝承の島。与論にもアマミキヨ伝承は残っており、潮の流れのつながりを教えている。

 

アンジニチェーの時代

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 与論の按司時代と英雄時代を象徴するのは、アンジニチェー(アージニッチェー、アージンチェー)であり、島で最も名高い伝説上の人物と言っていい。
 アンジニチェーは、「長い髪の白髪の老人」の夢を見た女が身ごもって生まれ、生まれた時から、髪は真っ黒で目を開き、歯も生えそろっていたため、鬼の子と恐れられ、埋められてしまう。けれど、夜になると、埋めた場所から稲光がして泣き声も聞こえる。それが七日も続くので、鬼の子ではない、神の子に違いないとして、大事に育てられることになった。
 アンジニチェーはその出生からして、英雄譚のそれを背負っている。

 ニチェーは弓が得意だった。

 それからときどき、荷物を積んだマーラン船が、島の東側の大金久の沖を通ると、船の帆網を射落とす者がいました。
 ニチェーの射放した矢だったのです。
 それを恐れた船は、島の西側の沖にまわって通るようになりました。(栄喜久元『奄美大島 与論島の民俗語彙と昔話』1971年)

 長じて、琉球王に仕えようと首里に向かう。首里で、たくさんの兵が城を幾重にも取り囲んでいるなかを、「お湯がわくよりも短い時間で城に忍び込み、王様の前にきちんと座って見せ」た。王は、ニチェーで生まれた彼に、「ニチェー」と名づけ、こう伝える。

 それから、王様は、お前のようなすぐれた家来をもつことは、王としてたいへん嬉しいことであると仰せられ、座をもうけてご馳走してくださいました。
 また、
 「与論島から以北をお前に治めさせるので、按司という位を与える」
 という有難い言葉を賜りました。それからあと、アンジ、ニチェーとよぶことになりました。(栄喜久元『奄美大島 与論島の民俗語彙と昔話』1971年)

 ここでは、琉球王から按司という位階を授けられた格好になっているが、重要なのは、彼が与論の豪族としての按司に他ならあかったこと、また、ニチェーが根人(ニーチュ)を暗示していることだ。ニチェーという土地の者であれば、その下に名が付くはずだが、按司にして根人を暗示するのであれば、英雄化された象徴を帯びた名であると言える。

 ニチェーは王に仕えるが、ある日、暇乞いをする。王は、形見を残すことを命じ、ニチェーは妹のインジュルキから借りた弓を起くことにし、与論に帰る。
 ところが、その弓は妹が大切にしていたもので、ニチェーは桑から代わりの弓を作るが、妹の気持ちはやわらがない。

 困ったニチェーは献上した弓を取り戻すしかないと、ふたたび城へ忍び込み、弓を取り返して島へ戻ってくる。
 妹は喜んだが、弓を床の間に飾り、毎日眺めていた王は怒り、「与論のアンジ、ニチェーのしわざに違いない」と断じて、与論に兵一千をさし向ける。
 琉球の軍船は東の茶花に現れる。ニチェーが茶花に着いた時には、既に兵は上陸していたが、ニチェーが斬りまくったので、恐れをなし船に逃げ込む。

 ニチェーは、茶花の浜の岩の上に立って、船に向かって叫ぶが、ちょうどそのとき、一本の矢が飛んできて、ニチェーの頭上に突き刺さる。その流れ矢は、船のご飯炊きの老人が、天に向けて放ったものだった。
 生き残った者たちは帰還し、報告するが、王はニチェーの死を信用せず、ふたたび兵を与論に向ける。茶花の沖から浜を伺うと、ニチェーは死んだ時のまま、直立で軍船を睨みつけるように見え、これで琉球の兵は上陸する気が失せてしまう。

 王は、ニチェーの死に安堵するが、一族を残しておいては、やがて何があるか分からないと、翌年、再び兵一千を与論に送りこむ。
 妹のインジュルキは奮戦するも、多勢に無勢でついに切られてしまう。

 不思議なことに、インジュルキの首が切り落とされると、首は宙に踊り上がり、東に西に飛びまわりながら、
 「ニリャバイシリ ハネーラバイシリ」(海の神さまが 早い流れに)
 と歌いました。のろいの歌でした。
 琉球兵は、このありさまを見てたいへん驚き、われさきにと船に乗り戦軍を引きあげました。
 ところが、にわかに天がかき曇り、大暴風になりました。船は一隻も残らず沈没してしまいました。
 琉球に帰りついた者は、一人もいなかったということです。(栄喜久元『奄美大島 与論島の民俗語彙と昔話』1971年)

 伝説のアンジニチェーであれば、より詳細な民話もあるわけだが、ここでは、主要なプロットはあり、脚色の少ないものとして、昭和41年の前、西区の源治熊、源島保から採取したものに依る。

 アンジニチェーが活躍したのはいつの時代だろう。按司の呼称が生きていることからも、按司世のなかにあり、第二尚氏の統治者がやってくる以前だということはすぐに絞りこめる。

 その間のなかの時期は、船の航路がそれを暗示しているのではないだろうか。はじめニチェーは、島の東側を航行する船の帆を射落とし、以降、船は西側を航行するようになる。そしてニチェーに憤った王が軍船を向けるは西側を航行しており、上陸するのも、西の茶花である。ということは、ニチェーが活躍したのが、船の航路が東側から西側に変わる時代に当たることを示唆するように思える。「マーラン船」が出てくるが、これは伝承の過程で、後代の船の名称に置き換えられたものと見なせる。

 そう考えれば、アンジニチェーとは、与論の按司時代の隆盛と琉球への服属によるその終りを民話として封じ込めたものではないかと思える。そして琉球は、「与論島から以北をお前に治めさせる」と言うように、ついで与論の北を狙う者たちだった。この場合の琉球は、浦添かもしれないが、今帰仁である可能性も持つ。時は、13世紀頃。これは、ニチェ-のものとされるチンバー(積石墓)を調べればより分かるだろう。

 また、「兄のキャーラドキは百姓が好きで農業をやり、妹のインジュルキは海が好き」で、ニチェ-は武に秀でるということは、ニチェーの一族が島の統治を行うことを示唆した神話化の契機も見ることができる。妹は、呪言を放つことができるのであれば、兄が政治を、妹が宗教を司る形態も痕跡として残されている。ニチェーは王との関係よりも妹との関係を重視ているのも、ヲナリ神の島にふさわしい。

 総じて、ウプドーナタ(大道那太)に比べて、実在を確かめる根拠は少ないものの、伝説化の要素はナタに比べて格段に多い。それは、ニチェーがナタ以前の人物であるとともに、ナタ以上の存在感を持っていたことを示している。
 
 ところで、アンジニチェーを生み出したのは、ニッチェー・サークラだが、島への来島の順番から言えば、ニッチェーの次には、サトゥヌシ・サークラが来る。サトゥヌシ・サークラが、与論の琉球王朝への服属を機にやってきた集団なのかもしれない。

 ぼくは以前、こう考えている。

 サトゥヌシとニッチェーの前後関係について野口は一部、混乱した記述を見せているが、『与論島―琉球の原風景が残る島』で高橋誠一は、「分布の面で見る限り、両サアクラの構成員の移住は、先後をつけがたいほどに重複して行われた可能性が高いと言わざるを得ないのである」(p.122)としている。思うに、両サークラはその初期に按司の座を巡って激しく対立した時代を持ったのではないか。ニッチェーは与論の英雄譚、アージニッチェーの物語を持ち、サトゥヌシは「里主」の意味である。両者は対立の後に、ニッチェーが勝者となる。サトゥヌシ・サークラはスーマ・サークラという別称を持つが、それは敗れたことにより、サトゥヌシという名称が抑圧された結果、生まれたのではないだろうか。(「与論シニグ・デッサン 2」

 しかし、アンジニチェー伝承の成り立ちから見ると、ニッチェー・サークラは与論の按司時代を象徴し、サトゥヌシ・サークラは、琉球服属を象徴しており、サトゥヌシがスーマという地名名称を別称を持つのは、その後の王舅、花城勢力による抑圧を意味するものではないかという仮説が立てられる。

安田とのシニグつながり

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 安田シニグと与論シニグが共通しているのは、仮面仮装の来訪神儀礼という点で、これは両島のみでなく、シニグ全体に通じるものだ。

 ただ、安田シニグが、「半裸の上にワラのガンシナ(鉢巻状の輪)と帯をし、それに山のシイなどの木の枝や羊歯の葉をさして頭から身体まで緑の葉で被う。特に頭にはその頃に赤い総状の実をつけるミーハンチャ(和名ゴンズイ)の枝をさして飾る。身の丈より高い木の柴枝をもつ」(小野重朗「シヌグ・ウンジャミ論」)と、本格的なのに対し、与論シニグは、「実の多くなったヤマブドウの蔓をたすきのように身にまとう」と仮面仮装の側面は薄れてしまっている。ただ、前日にウガン(御願)での夢見によって、豊作の如何を告げられ、シニグ神として迎えられるという、化身の側面は残している。

 また、来訪神を迎えるという形態も共通しているが、与論シニグでは、来訪神としてのパル・シニグをムッケー・シニグが迎えるのに対し、安田シニグでは、山を降りてきた男たち、来訪神を「それぞれの組の主婦たちが飲物を持ってサカンケー(坂迎え)をする」ように、スタイルは違っている。安田の場合、以前は祝女が迎えていた。

 安田シニグでは、山を降りる過程、集落を廻る過程で、柴竹を持って、男の子を前に列をつくり、「エーヘーホー」と唱えるが、与論シニグでは、男の子が唱えるのは、「フーベーハーベー」と違っている。ただ、どちらもお祓いの意味を持っている。

 神送りの後、安田シニグの広場では、田草取りの模擬行為「田草取り」、船を走らせる模擬行為「ヤーハリコー」、輪をつくり踊る「ウスデーク」が余興のように行われる。与論シニグでは、これらの決まった模擬行為や踊りはないように見える。

 豊穣祈願という意味では、谷川健一と松山光秀の考えを援用すれば、これはスクの予祝祭に起源を持ち、生産形態の変更に伴い稲を始めとした濃厚祭儀に転化する。ただし、与論シニグのショー・サークラでは、「うくやま ぴどやまぬぬ ししぬ まーまんなー(奥山辺戸山の猪の真中)」と唱えるように、狩猟時代の豊穣の意味を失わず持っており、シニグが農耕祭儀を起源にするものではないことも物語っている。

 また、伊平屋島、伊是名島、沖永良部島、与論島、本部、伊計島、宮城島、平安座島、浜比嘉島というシニグの分布をみると、これはアマミキヨ、シネリキヨの南下によってもたらされたものだと思える。

シヌグは始祖神アマミキヨが出現してシマを祓う行事であることがわかる。安田では柴をもとって山を下る男たちを「アマン世の姿」だというが、それは始祖たちの姿の意であろう。(p.154小野重朗「シヌグ・ウンジャミ論」)

 小野はこう書くが、「アマン世の姿」は、アマミキヨのそれではなく、アマン(ヤドカリ)を始祖を見なした時代のそれだと思える。

 安田シニグにない要素としては、与論シニグが、沖縄の「神拝み」の側面を持ち、祖先が移住した経路を示す神路(カミミチ)を辿る過程を持つことだ。ここで、来訪神儀礼は、祖先儀礼へと接ぎ木される。また、パル・シニグとムッケー・シニグは、沖縄の門中に似た氏族集団サークラが行っており、かつサークラ全体で行う共同祭儀となっている点も新たに加えられた質になっている。

 最大の相違点は、安田シニグでは来訪神は山に降りるのに対し、与論シニグは海からやってくる点だが、ここでは、地勢の条件により垂直的なものの水平的なものへの転化であると見なしておく。

 安田シニグとの比較でいえば、仮面仮装の来訪神儀礼と豊穣際のは古層に属し、共同祭儀は新しいということになる。言い換えれば、狩猟・漁労の祭儀が農耕の祭儀となった時に、シニグ名称は与えられ、カミミチが発生し、共同祭儀化されたということだ。

「瀧家文書」解説への注記 1

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 『与論島の古文書を読む』から、「瀧家文書」について、先田光演が加えた解説に注記する。


1.表題と作成年

 瀧家文書の表紙は欠落。35pに、「天保七丙申 八月 萬集 持榮」とある。「よろずあつめ」。

 天保四年から八年にかけて記録したものと思われる。(1833~1836年)


2.藩役人の派遣

 1691年。沖永良部島、代官設置。代官1名、附役3名。
 附役の内2名が1名交代で与論島に勤務。御仮屋に居住。代官は、1回/在任中に視察。
 1745年、横目2名。1名は与論島詰。

メモ

 与論島には、代官在任中に一回の視察だから、滅多に来てないということ。常駐は、1年交代の附役。1745年以降はそれに横目が加わる。18世紀目前から1名、18世紀半ばからは2名。横目の在任期間は分からないが、代官は滅多に来ず、附役も一年交代という意味は大きい。代官不在ということは、大和世の象徴の姿を見ることはなく、附役が一年交代ということは、与論に子孫の系列を作りにくいということだ。


3.島役人

 島役人。
 与人(1名/間切)、横目(1名/間切)、掟(1名/村)。
 1727年 12名
 1833年 21名
 1837年 15名(「瀧家文書」内の記載)

 与人、横目、掟以外には、作見廻、溜池見廻、筆子がある。
 この他、島独特の下級役職名として、枡取、屋子貝当、棕梠当、御蔵番、役所番、御高札当、定船頭、船筑、濱居番、垣邊名泊、東泊り・磯瀬戸、案内、検者、村乙名・老者、さばくり。

メモ

 夜光貝の担当までいる。ご大層なことだ。臨時職もあるということか。お役所よろしく仕事を増やしていったということか。

 与論の島役人は、数十人規模か。1831年の人口は、3180人。1833年の島役人数21名を取ると、人口の0.7%。「一八〇〇年前後の大島の島役人の制度上では、概略、人口の約三%、一一〇〇人程度であった」(p.44 弓削正巳「近世奄美諸島の砂糖専売制の仕組みと島民の諸相」2011年)に比しても、とても少ない。

 「垣邊名」。ハキビナに当てた漢字だろう。


4.祭役と祭事

 与論主の他に首里主の記載(「基家系図」)それぞれの役割を推し量ることはできない。与人とは別役だから、これは祭祀に関わる職名ではないか(先田)。

 大掟 集落代表
 親時 日柄見
 堂守 観音堂と弁天堂の管理人
 宮守 東寺や神山などの管理人

 城籠当り シニグ祭の統括者
 高屋当り 聖地高屋の管理人
 城之百(ヒャー) 聖地城の管理人
 嘉陽之百 聖地嘉陽の管理人

 係は全て男性。

メモ

 沖縄北部の集落でもシニグ祭が伝承されている。これも集落の祭祀であり、与論島におけるサークラごとのシニグ祭りや沖永良部島のアタイシニグに相当するものであり、より古層の祭祀であろう。この古層の祭祀の上に、新たな全島の豊年祈願の祭として組み立てられたものが、与論島と沖永良部島ではなかったか。即ち二段階のシニグ祭を想定してみた。(p.242)

 これはその通りだろう。与論シニグは、仮面仮装の来訪神儀礼、豊穣祭、氏族の祭儀としての側面を持つ。それを農耕の共同祭儀として編成したのは、島の統治者である。与論シニグの仮面仮装は、まるで植物を盗まれたみたいに形骸しか残されておらず、起源像からはるかに遠ざかってしまっているが、歴史を物語るものはこれしかないと言ってくらい貴重であるには違いない。

 「嘉陽」は、何の聖地なのだろう。

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