本来向き合うべきことに幾重にも別の要素がかぶさってわけがわからなくなる事象のひとつに沖縄の基地問題もある。著者たちはそれを内部に立ち入ってすっきりした像として提示している。せんじ詰めれば、「沖縄が金を要求し、政府が応じることで基地の縮小が実現できなくなってしまう」ということだ。
そこにはお馴染みの利権がある。政府省庁と絡み合った県内企業と同士の利権をめぐるつばぜり合いもあれば、工事を県内に収めるためのつばぜり合いもある。そしてひとたび流れができてしまえば、
沖縄の中には「お金をもらったのだから基地反対を言うのは少し控えよう」という遠慮が生まれ、政府側には「お金をあげたのだから基地縮小の努力はしなくてもいいだろう」という怠慢が生まれます。
ということになる。「おねだり」と「ばらまき」。「基地を誘致すれば税金で建設費用が落ち、反対すれば振興策が税金で落ち」るという「税金還流装置」。こうなれば、膠着して事態が進まなければ進まなくなるほど、「税金還流装置」も恒常化してしまう。そして、
沖縄の企業や行政は振興策依存で自立心が奪われ、沖縄社会は自然破壊や地域の分断といった副作用に苦しむのです。
米国の政策もぬかりない。「米国の沖縄政策」は、「被差別意識が「反日」に向かうように県民の「沖縄ナショナリズム」を上手に利用し、海兵隊基地が具体的に日本の安全保障にどう役立っているのか(あるいはいないのか)という本質的な議論を封じ、被害者意識が米国批判に向かわないように基地負担平等論として内政問題化させる」。
こうした入り組む要素を取り除くと、基地問題は沖縄の抱える問題を「象徴」はしていても、問題の「根っ子」ではない。
沖縄県最大の経済的な課題は「貧困」。
1.所得の公務員偏在
2.所得上の著しい公民格差
3.政治的な影響力のある公務員が経済的イニシアティブも握っている
4.結果として「民」優位ではなく、琉球王朝以来の「公」優位の経済社会の温存
この整理は、与論の状況を拡大構造化すれば類推できて、とても腑に落ちてくる。そこで著者たちは、「琉球王国時代から階級社会を守ってきた沖縄が内部分裂した時、初めて民主化の希望が芽生えるでしょう」と書いている。
もうひとつすっきりするのは、「大事なのは被害者沖縄に寄り添うことではなく、沖縄の基地を減らし、見返りの振興策と減税措置をなくすこと」と書かれていたことだ。
沖縄にある米軍基地には借地料が発生している。「一方、本土のほとんどの基地は国有地」。言い換えれば、「仮に沖縄から本土への基地移設が実現すれば、それだけで借地料は大幅に減」る。「その分、医療や福祉、教育のために税金を使え」る。「沖縄の騒音や事故や事件が激減し、国民全員の利益」になる。
人は良心では動かない、のではなく、動けないとしたら、良心に訴えるより、経済的な動機はよほど力になる。そこで、
本土:77%、沖縄:23%(米軍基地)
本土:74%、沖縄:26%(内、米軍専用基地)
本土:99%、沖縄: 1%(自衛隊専用基地)
本土:83%、沖縄:17%(軍事基地全体)
普天間移設や在沖海兵隊の撤退から試算される本土比5%が、まずは「日本全体の目標にすべきではない」か、という言明も力を持ってくる。
これはクールでフェアな視点だけれど、ドライではない。
「沖縄への贖罪意識からの解放と自己満足が本当の目的ではないのか。沖縄の周辺にはそういう人たちが多すぎます。
余計なお世話はせず、沖縄の人たちに任せる。どうしても関わりたい時、支援したい時は、沖縄観光に行くか沖縄産のものを買い、きちんと対価としてお金を落とす。これで十分ではないでしょうか。
こういうのを優しいというのではないだろうか。沖縄は倫理や良心の過剰な仮託先となって言説バブルを起こしていて、追おうとすればリブートをかけたくなってくるので、熱さましになる投げかけだと思う。
「やんばる海水揚水発電所」のような自然エネルギーの産業などによる辺野古の「存続の可能性を探っていくことが、結果として基地を減らすことにつながるのではない」かという視点も結局のところ、そういうことだと思う。
ぼくにとっては、与論に対して、琉球弧に対して向き合い方を示唆してくれる一冊だった。