琉球刺青を探究する道すがらでどうしても触れておきたいことがある。島尾ミホの「紅石」だ。
仲良しのイサッグヮと二人で私は小川の底から粘土質のビンイシ(紅石)を拾い集め、それを平たい石の面に摺りろしては互いの顔に模様を画いて遊んでいました。白っぽいビンイシからは細かくて柔らかな練りおしろいが出来上がり、うす紅色のものは、雛祭りの時の紅餅に似たうす桃色の練り紅になりました。それらを紅差しの指につけ、相手の額や頬や頤などに思い思いの模様を画き、鼻のあたまにはひときわくっきりと紅の太い線を入れました。
さわやかな音をたてて絶え間なく流れる小川を鏡代わりに自分の顔を写して見ても、きらきらと輝く日の光りの照り返しに妨げられて、はっきりとはわかりませんが、相手の顔を見ると、自分の顔もおよその見当がつきおかしくてたまらず、二人は笑いころげては洗い落とし、何遍も書き直しをくり返しながらふざけ合っていました。南洋の土人のお化粧はきっとこんなかもしれないと思いながら、そして顔だけでなく手首から指先にかけても、深い紺色のビンイシを使いハディキを真似て、星形や十文字、渦巻き、唐草などさまざまな模様を画きました。島の女の人が両手の手から指先までの甲に施した入墨をハディキ(針突き)というのですが、私の母の若い頃までは、化粧などすることのすくなかった島の娘たちはハディキを入れてその模様の複雑さを自慢しあっていたと聞かされました。母はまだ十五、六の娘の頃、友達がふくよかなその白い肌に美しい模様のハディキをしているのを見て羨ましくて仕方がなく、それを野蕃な習慣だという理由で親から許して貰えなかったのがとても悲しかったと話していました。
もうハディキの習慣はなくなっていましたが、まだ歳をとった女の人の手の甲には、若い頃に競い合ったというその模様が色褪せて刻まれているのを見ることができました。でも子供たちのあいだではなおハディキ遊びが残っていて、蘇鉄の葉針を束ねてハディキを突く真似をしたり、ビンイシや花の汁などで模様を画いて遊んでいたのです。
島尾ミホ八才、1927(昭和2)年のことだから、文身禁止令からは半世紀経っているが、奄美大島と同じように禁止令に応じるのが早かったと思われる加計呂麻島でも「歳をとった女の人の手の甲」に刺青を見ることができだ。それはこの三年後に、小原一夫が奄美大島から何点かの刺青模様を採取していることとも矛盾しない。
ただ、早かったとはいえ禁止令に即座に応じたわけではなかったのは、ミホの母の友人たちがまだ刺青をしていることから窺える。数年後に小原が奄美大島から採取した刺青模様を持つ女性の最少年齢は68才だが、採取数を増やせば、もっと若い女性からも得られた可能性がある。あるいは、加計呂麻島は奄美大島よりも若干あとまで行われていたということかもしれない。
少女ミホは紅石を擦って、顔や手に化粧を施す。彼女は、「南洋の土人のお化粧はきっとこんなかもしれない」と思う。たしかに、ミホは文字を書き、すでに習俗が失われかけているところにいるのだが、一方で老女の手には刺青を見ている。彼女はまだ「土人」の習俗と地続きの場所にいた。
いや「ハディキ遊び」をすることでは、ミホはまだ「土人」習俗のなかにいると言ってもいい。刺青は文身禁止令後、ゆるやかに消滅していった。そう言うだけでは足りない。それはなお刺青遊びとして残存したと言うべきなのだ。
「深い紺色」という色まできちんと捉えられていて、「紅石」は刺青をする前の少女たちが、ごっこ遊びを通じて自分の将来を反復させていた心映えをそのまま伝えているのではないだろうか。
書くべき人は書くべきことを書いているものだ。琉球刺青を追う者にとってはかけがえのない文章であり、また島尾ミホが、文学的才にあふれた女性というだけではないことも伝えている。
※参照:「琉球文身」