ジュズダマは、「し(ぃ)したま」、「ち(ぃ)だま」、「すだま」の表現が見られる。歌謡では、「ジュズダマはイネの豊かな稔りをたとえる物として登場している」。
アワ なら石の花
ムギ 壁葺き
コメ ジュズダマの実
キビ ウシの尾
イモ ウシの角
マメ 大和の刀の鞘
佐々木は実際に、コメとジュズダマの実を写真で比較している。
ジュズダマの実の形状は、コメ粒よりかなり大きく、イネでも、ジュズダマの実ほどに大きくなることは一般的にはありえない。(中略)それは、イネの実りにおいて、少しでも大きく実入りしたコメ粒の収穫を希求する心情が、ジュズダマの実を比喩に選んだ理由と考えられるだろう。(佐々木和子「琉球歌謡の植物をめぐる表現の研究」「沖縄文化」118)
柳田國男は「人とズズタマ」のなかで、ジュズダマがもとは数珠とは関係なく、ズズタマと呼ばれ、旧語はツシタマだったと書いている。ぼくは、これを「したま」、「ちたま」、「すだま」として定着させた琉球語感覚の方にひかれる。これは、霊力からみた霊魂、言い換えれば、霊力の発現として見ているように見える。
だから、稲よ大きくなあれという心情はあるにしても、ここには、「稲」と「ジュズタマ」を霊力の現われとして見る視線が伏在しているのではないだろうか。
面白いことに、「牧場で繁殖したウシ・ウマの行列が、ジュズダマの実が連なり揺れている様子に見立てられている」ことだ。
狭い道に追ったなら、
数珠玉のように揺れに揺れ
大野に出て、
追ったなら、
先頭万頭も追い囲こと
果報だと、
こう唱えます、尊(「九場川村のまーゆんんがなしぃの神詞」)
キビが「ウシの尾」、イモが「ウシの角」に喩えられるだけでなく、牛馬の行列までもがジュズダマに重ねられている。揺れらめくものに特異な視線が注がれている。「綾」という美称辞にも、霊力の発現という語感が宿っているのだろう。揺らめくというのは、霊力が発現する合図なのだ。
ジュズダマは、首飾りにもなった。牛、稲など、グスク時代以降の文物に対する島人の視線をジュズダマは教えている。