ニコライ・ネフスキーは書いている。
宮古群島では、太陽と月は夫婦になっている。夫が片足を妻に投げたとき月食が起こり、妻が夫に媚びたときに日食が現われる。
この説話では、すでに太陽は男になり、しかもふたりは夫婦になっている。これは男性が太陽化したことで、女性が月化したものだ。あるいは、月はその前から女性で、そのまま女性にとどまったのかもしれない。
多良間島の伝説。昔、妻である月の光は、夫の日の光よりもはるかに強く明るかった。夫は羨望して分けてほしいと願ってみたが、妻は聞き入れなかった。そこで夫は妻を地上に突き落とした。妻は泥で汚れたが、通りかかった農夫が桶の水できれいに洗った。そして月は空に戻ったが、月は明るさを失ってしまった。月は農夫を招いた。そこで、満月の夜には二つの桶を天秤棒につけて運ぶ農夫の姿がいまでも見える。
ここでも月は女性だ。ここでは男性は太陽であるばかりでなく、月に対する優位性を露わにしているので、王権以降の伝承だと考えられる。
首里や那覇では、冴えた月夜に「アカナー」という赤い顔と髭を持つ童子のような生き物が月に見えるという。山間に生息する非常な酒豪と言われることもある。童謡では、あかなーは「月の弟」だ。
赤い顔は貝で髭は蛇だとすれば、アカナーの原形は蛇と貝の子だ。それが、「月の弟」だということは、ここでは、月も蛇と貝の子という意味になる。すると、月も太陽の子とみなされることになる。
月のアカリヤザガマの話。月と太陽が、下の島へ変若水と死水を持たせてアカリヤザガマを使いに出した。人間には変若水を浴びせて生き返るようにして、蛇は肝心を持ってないからには死水を浴びせよという言いつけだった。ところが、アカリヤザガマが疲れて休んだ時に、蛇が変若水を浴びてしまう。仕方なく、アカリヤザガマは人間に死水を浴びせる。太陽は怒って、アカリヤザガマは桶を持って月に立っていることになった。
ここでも太陽は月に対して優位性を持つ存在になっているが、月は太陽とセットで登場している。
かろうじて仮説が立てられそうなのは、月も貝が生み出しているのではないか、ということだ。月-不死は、太陽-再生の段階になって、もうひとつの太陽と見なされることになる。