一方は言いたいことを言い、他方は言われたいように言われている。無惨という思いを禁じ得ない。島尾敏雄とミホがそうなのではない。対談者の二人のことだ。
ここでは島尾ミホは、魅力的だが不気味な存在として捉えられている。
梯 初対面の第一声が「あなた、ゆうべ私の夢に出てきましたよ」だったんです。「夢で見たお顔とおんなじ」って。本当だったのか、ある種の自己演出だったのか、今もわかりません。
瀬戸内 自己演出に決まってる。というより自分でそう思いこむんでしょうね。
瀬戸内 (前略)それにしてもあなた、ミホさんのような怖い人のところへ取材に通ったんですから、勇気がありましたね。
梯 ミホさんの書いたものを読んで、もうびっくりしたんですね。『死の棘』で狂乱する妻として描かれているあの人が、こんなにすごい作家だったなんて、と。それでどうしても会ってみたくて。(後略)(「新潮」2017.3)
こういういい気なやりとりの後にこう続く。
梯 私はミホさんに、もう取材はしないで、書かないでと言われたのに書いてしまったことが心にかかっているんですが、書いてよかったんでしょうか。
瀬戸内 もちろん、よかったのよ。あなたはミホさんが好きで、ミホさんの人物と作品を知ってもらいたいと思って、時間と労力をかけて書いた。喜んでいるに決まってます。それに、あなたのこの本には、これまで世に出ていなかった資料がたくさん出てくるでしょう? これだけのものが集まってきたということ自体、あなたが書いてよかったということなのよ。
(中略)
瀬戸内 「ここで、こんな資料が欲しいな」と思ったら、向こうから来るの。あなたも覚えがあるでしょう?
梯 あります、はい。
瀬戸内 それはあなたが本当の書き手になったということなのよ。書かれる相手がどうぞ書いて、と思った時よ。
梯 今回の本は特にそうでした。
瀬戸内 そういう時って、その人の魂が「書いて」って言っている時だと思うの。私ね、やっぱり魂ってあるんじゃないかと思うの。
呑気なものだ。瀬戸内は、ミホを思いこみの人に追い込みながら、自分も自身の思いこみを語ることになっている。
梯は、本人に取材を断られながら、息子伸三の許諾に依存してしまったために、「書いてよかったんでしょうか」という問いを抱えざるを得なくなっている。そして聞く相手を間違えている。聞くべき相手は能天気な老作家でもなければ息子伸三でもなく、島尾ミホである。そして、本当に問われるべきことは、得られない許諾のもとに書いたことではない。にもかかわらず、書けていないことなのだ。
梯は実のところ、敏雄にもミホにも向き合えていない。「二人のことを書いていた時、私も彼らの「狂い」に参加していたのかもしれません」と、梯は話しているが、これも呑気だとしか言いようがない。「狂い」が足りない。