青木正次の母界論を手がかりに考えてみる。
食という自己表出では、自己は「食い吐く」ものとして現われる。摂取と排泄という観念像。自他未分化。「蛇」。
たぐり(嘔吐物)や糞尿の排泄が神に成る話や、異類が子を排泄するように生む話が、排泄が産出という観念像に転位するさまを伝えている。食って吐く食相から生む性への相へと転位するのである。
ここから筋道を立ててみると、
初源の自然と人間は、「食べる-食べられる」関係としてある。
そこでの、人間の自己像は、「食べる-排泄する」ものとして、食べるものと排泄するもとも未分化。見い出される自己像は「蛇」になる。
ここから、「排泄が産出という観念像に転位」すると、排泄物と子供が同一視される。
このとき、子を産むという観念は、食べられる自己として現われる。それが母であり、ここから生む性が現われる。
だから、最初の性は母子関係として現われる。このとき生む性としての自己像は「シャコ貝」になる。
これを段階の違いとして現わしてみる。
・人間と自然:「食べる-食べられる」関係
・人間の自己像:「食べる-排泄する」
・表現の水準:「食」
・トーテム:「蛇」
・生と死:「不死」
これが転位して、
・人間と自然:「養い-養われる」関係
・人間の自己像:「生む-死ぬ」
・表現の水準:「性」
・トーテム:「シャコ貝」
・生と死:「移行」
となる。